新宿に豪雨を降らせて見えたもの

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12月27日のクリスマスライブをもって私はコナを引退した。正直なところ、引退といっても4年の早稲田祭からまたバンドは復活出来るしサークルの同期、後輩とは会おうと思えば簡単に会えてしまうので悲しさはない。が、やはり何か胸に迫るものがある。引退という節目を迎えた今、この瞬間にしか書けない、これまでのサークル活動でのあれこれを振り返りながらつらつらと文章に残しておこうと思う。バンドメンバーに関する話も多々あるが、全て私個人の目線・感情基準での話なのでもし何か実際と異なる部分があれば申し訳ない、ということを先に述べておく。

 

サークルに入ってから今日までを思い返した時、まずは「光陰矢の如し」という言葉が本当にその通りであったという実感が湧き上がる。サークルの新歓コンパで当時の幹事長から

「うちのサークルは固定バンド制だから、一度バンドを組んだら引退までサークルを辞めて欲しくないんだけど、大丈夫?」

と尋ねられた。当時の私は(3年の冬までサークルを続けるってかなり先を見据えた話だなぁ……長いけど多分大丈夫でしょ)といった具合に考えていたのだが、誇張抜きに一瞬で約3年という月日は過ぎ去った。大学入試、入学式ですらついこの間起きた出来事のように感じるのだから、サークルだって同様だ。

 

ライブ中のMCでも少し話したが私は大学に入るまでテニス部だったのでバンドとは無縁の人間だった。ただ、高校生の時からひとカラが好きでお小遣いのほとんどをカラオケ通いに費やすくらいには歌うのが好きだった。今も大概だが当時は相当歌が下手でありつつも、高校3年生になり受験勉強に勤しむ頃にはすでに「大学に入ったら歌うの好きだしバンドをやってみたい!」という半ば憧れに近い思いがどんどん膨らんでいた。

 

2月、無事に入試を突破した。4月、晴れて大学に入学すると新歓期真っ只中のキャンパスを歩いているだけで数多のサークルのビラが手元に集まった。その中にはバンドサークルのビラも複数あった。ただ、どのサークルに行けばいいかなんてわからないし、そもそも自分はバンドサーでやっていけるのか?という不安が生まれた。完全に初心者だし、フリー制のサークルに入ったとしたらバンドを組んでくれる人がいるのかも分からないし、なんとなくのイメージだがチャラい人が多くて馴染めないんじゃないか、みたいな心配もしていた。実際、某バンドサーの新歓に行ったら新入生が(!)先輩にビールをコールで飲ませ、タバコもガンガン吸っている光景を目撃し、「これがバンドサーなのか……怖い世界だな……」と戦慄したものだ。

 

そんな私が「ここなら馴染めそう!」と思ったのがコナだった。固定バンド制だから人見知りを発揮してライブのたびにバンドを組めずじまい、なんてことがないし3年間同じメンバーでバンドをやれるのは楽しそう、というそんな安易な理由だったが、とにかくコナ以上に良いバンドサークルはないと直感で思ったし、新歓コンパに行ってからはコナ以外のバンドサークルは見ていなかった。コナに入れなければバンドはやらず他のサークルを探そうかな、と考えていたくらいだ。私をコナのボーカルとして受け入れてくれた2個上の代には深く感謝している。

 

コナでの最初のライブはご存知の通り、新入生ライブだ。私はback numberの青い春と、東京事変の新しい文明開化をやらせていただいた。back numberとか歌ってたんだね自分……。この記事を書くにあたって久々にこの時の音源を聴いたが、よくこれでボーカルをやろうと思ったな、と思わず苦笑してしまった。歌声からは緊張感がありありと伝わってきたが、先輩と組んで初めてのライブに臨んでいたわけだし、ライブ後に固定バンドを組むのだから平然と歌えるわけがない。今までのサークル人生で一番緊張した練習、ライブだった。


東京事変 - 新しい文明開化

 

実はこの新入生ライブの時からこうくんにはお世話になっていた。この時、まさか自分がこうくんと固定を組むとは全く思っていなかった。この際正直に書くが、初期のこうくんのツイートがかなり尖っていたせいでこうくんは怖い人だ、という印象を持つようになり、こりゃ初心者の私とバンドは組まないだろうな……と思っていた。新入生バンドの部室練で、どういう人と固定を組みたいの?という話になった時に、「楽器隊はまだライブを聴いてないからなんとも言えないけど女ボーカルの曲が好きだから女ボーカルと組みたい」という旨のことを言ってるのを聞いて(あ、そしたらこの代の女ボーカルは私とたなひなしかいないからたなひなと組むんかな。あの子相対性理論とかが似合う声だったしザ・女ボーカルって感じだもんなぁ)と考えたくらいだ。まさか理論のりの字も出ないような曲をたなひなが引退ライブで歌ってるとはこの時誰も想像していなかったが。

 

一方で、バンド決め会議当日を待たずとも、組みたい人がいれば個別で声をかける、という動きもちらほら見られた。風の噂であの人とこの人がもう組むことを約束した、みたいな話を聞くたび「うげ〜〜〜やべぇ〜〜〜これ当日売れ残るかもしれんやんけ〜〜〜」と内心焦っていたが、ありがたいことに私も声をかけてもらった。それが植山だった。詳しいことは忘れたが植山とは学部が同じということとツイッターつながりで入学初期からの知り合いだ。その流れで複数人でカラオケに行く機会もあったのでそこで私の歌がどんなもんなのかは知ってはいる。それで声をかけてくれたのかなと思った。まだライブをみてないので私は植山がどのくらいベースを弾けるのか知らなかった(めちゃ弾けるみたいな噂は耳にしていた)が、純粋に一緒にバンドを組んでくれる人がいるという事実が嬉しくて二つ返事でオッケーした。

 

そんなこんなで新入生ライブでボーカルデビューを果たし、いよいよ固定バンド決めとなった。会議室に入るとすでに4人のボーカルの名前がホワイトボードに書かれており、その横にギター、ベース、ドラムの欄が用意されている。なんとも殺風景だ。ベースはもう決まっているけどギターとドラムで組んでくれる人がいるだろうか……不安がピークに達する。どんな曲でも歌うから、組んでくれ……心の中でそう切実に叫んでいた。

 

「もう組むことが決まってる人いたら名前をホワイトボードに書いていいよ」

その幹事長の一声で、妙に張り詰めた空気が一気に変わる。それまで周囲の様子を伺っていた人たちも、その言葉を皮切りに部屋の前に出て名前を書き始める。ただ、この段階ではさすがにどのバンドも欄が埋まることはなく、大半のメンバーはその場で決めることになった。

 

「じゃあ、こっからはとりあえず組みたい!と思う人のところに名前書いてってね、かぶったところとかは話し合いをして、決まったら印つけてね〜」

問題はここからだ。この期に及んで私から声をかけられない、とか言ってられない。誰かに声をかけなきゃ……そう思った矢先のこと。私の名前の横のギター、そしてドラムの欄に名前を書く人が現れた。それがぱいせんとこうくんだった。おそらく新入生ライブで植山のベースがうまかったのを見て、上手い人と組みたい!という二人が植山の名前が書かれた私のバンドのところに名前を書いたのだろう(他にもいろんな理由があるのかもしれないが)。なんにせよこの段階でもうメンバーが揃ってしまったので植山パワーすげえ……ありがてぇ……と頭が上がらない気持ちでいっぱいだった。

 

これでバンドメンバー確定かな?と思っていたが、私のバンドには忘れてはいけないメンバーがもう一人いる。それが中田だ。それまでのコナはキーボの人が固定でバンドを組むことがなく、ライブごとに参加するバンドが変わったり、そもそも参加しないライブもある、といった具合だった。吹奏楽のサークルをメインにし、バンドはサブとして考えていた中田も固定を組めるとは思っていなかったそうだが、「キーボの子とバンドを組めたらやれる曲の幅が広がる」という植山の意見(確か)によって、他の人と話し合い中の中田に声をかけたのだ。

「もしよければ一緒に固定組まない?兼サー先が忙しければ全然そちらを優先してもいいので!私はaikoみたいに可愛い声で歌えないけど、でもがんばるので……」

なんとも頼りない誘い文句を口にした気がする。最初、中田は

「いや、でもほんとたまにヘルプとしてライブに出してもらうとかでも全然良いんだけど、本当に固定組んでも良いの…?」

と遠慮がちに言っていたが、最終的には固定で組むことを承諾してくれた。

「まさか固定を組めるとは思ってなかったから嬉しいです、よろしくお願いします」と中田が皆に挨拶したあの瞬間にC¡tron!が誕生した。バンド組み会議で最初にバンドを組めたのがシトロンだったと思う。「楽しくやっていこう」なんて会話を交わしながら、無事にバンドを組めた私はほっと安堵の息を漏らしていた。

 

固定の初ライブである7月ライブは中田が兼サー先の用事と被って出られなかったので4人で出た。残念な気持ちもあったが、完全体のシトロンでライブに出るのがますます待ち遠しくなる。SuperflyのAlright!と中島美嘉のGLAMOROS SKY、ユニゾンの場違いハミングバードの3曲が初セトリだ。キーボがいないというのも曲選に影響しているが、シトロンらしくない異色なセトリである。そしてなんだかんだこの時2曲ギタボをしていた。GLAMOROS SKYのギタボに関しては、ネットに落ちているtabがギタボ向けじゃない、ということでぱいせんがわざわざ簡易化したものを教えてくれた思い出がある。やさC......


UNISON SQUARE GARDEN「場違いハミングバード」Live Version

 

 ライブに向けて初めて部室練に入った時、私は気づいた。

あれ?楽器隊みんな上手くない??初心者なの私だけでは??

気づくの遅いわ、というツッコミが入りそうだが、実際そうだったので仕方ない。こうくんに関しては新入生ライブの時に事変を叩けていたのでうまいのは知っていた。が、部室練で実際に演奏に合わせて歌った時に違和感というか、歌いにくさが全くなかったのでベースもギターも安定してる……と初心者ながらに実感したのだ。その時、私は嬉しさ半分、重圧半分を感じた。ずっと憧れていたバンドを組み、初めて練習に入ったことで本当に自分たちで曲を演奏しているんだ!という感動と、楽しさと、嬉しさがあったのは事実だった。しかし、バンドはカラオケではない。歌が下手だとバンド全体の完成度が低くなり、楽器隊の足を引っ張ってしまう。そういう意識があった。楽器隊皆がうまいとなるとそれは尚更である。はやく私も上手くならなきゃ、という責任感に近いものを感じたのだ。そしてその気持ちはライブを重ねるごとに強まっていった。

 

中田がライブに初めて出られた、すなわちシトロンとして初めてライブに出たのは9月ライブだった。が、この9月ライブはシトロンの黒歴史ライブとして名高く、話題に出すことは固く禁じられている(嘘)。私が喉を枯らしてまともに歌えなかったこと、暗譜が間に合わずボロボロの演奏、という内容で逆に思い出深いライブだ。せっかくの中田お披露目ライブだったのに……と、思い返すとかなり申し訳ない内容だったと思う。

ただ、この時の部室練を通して中田が絶対音感の持ち主でキーボもがっつり弾けることがわかったので、これは3年間固定としてやっていけば、引退する頃にはかなりいい感じのバンドになるんじゃないか、という予感を得た。きっと他のメンバーもそれに近しいものは感じたと思う。

ちなみにこの時のセトリはフジファブの夜明けのbeat、aikoのLoveletter、ZONEのsecret baseである。特にsecret baseの爆死っぷりは最初で最後のものだった。基本ライブの音源は必ず一回は聴くのだが、この時の音源は一度も聴いてない。


ZONE Secret Base 〜君がくれたもの〜(English Subs+Romaji+Kanji)

 

9月ライブで爆死した悔しさをバネに臨んだのが早稲田祭である。けいおんNo,Thank You!阿部真央のふりぃ、そして事変の透明人間というセトリだ。シトロンといえば事変とかアカシックとかaiko系統の曲をよくやる、自他共に認めるおしゃれバンドだ(よね?)。そんなシトロンが初めて事変をやったのが早稲田祭での透明人間なのだ。エモい……。個人的にはけいおんのギターを弾くぱいせん、というのがレア度高くて面白いなと思っている。外部の人が見にくる初めてのライブで、緊張で声が震えたが聴きにきてくれた人から「シトロンのベースうまかった」とか「1年生バンドの中で一番バランスがよかった」とか「歌うまいんだからもっと自信持って歌っていいと思うよ」とか、そんなコメントを直に聞けたのが嬉しかったしモチベーションが高まった。


透明人間 - 東京事変(Tokyo Incidents)

 

そしてこの頃からボーカルの声質、歌い方に合わせた選曲ではなく、楽器隊を押し出せるような選曲をしてもいいんじゃないか、という方向へシフトしていった。私としてはせっかくかっこいい楽器隊がいるのだからその選曲の仕方は大歓迎だったしそうした方がますますシトロンが良くなると確信していた。が、そこで初めて壁にぶちあたる。それが、あまりにも私と声質の違うアーティストの曲はどう歌えばいのか、という悩みだった。バンドを始めたばかりの頃はそこまで考えが及んでいなかったが、演奏のクオリティが高い楽器隊がいるのだから歌も原曲に寄せないと聞いてる側は違和感を覚えるんじゃないか?と気になるようになったのだ。実際、全体を通してバンドメンバーは私の歌い方とか声質をある程度考慮した上で曲を提案していたことが多かったように思う。 が、やはり毎回私の歌に寄せた曲をやるとは限らない。

 

早稲田祭の後の固定ライブはクリスマスライブだが、この時にパスピエのS.Sをやった。エス🔥エス🔥さらって😈さかしまなポーカフェイス🔥。このパスピエをやるとなった時、かなり葛藤した。というのも、パスピエは誰がどう考えても私の歌よりもたなひなの歌の方がしっくりくるし、当時のたなひなはパスピエが好きで良く聴いている、とのことだったので私の歌が正解になることは絶対にないのではないか、と思ったのだ。そもそもバンドに正解、不正解なんてあるのかいまだにわからないが、とにもかくにも練習している時に楽しさよりもモヤモヤを強く感じた曲はバンドを始めてからこれが初めてだったかもしれない。


S S

 

そんな葛藤から私を救い出し、そして引退するまで支えてくれた言葉がある。それが、いつの日か植山が言っていた

別に原曲に寄せなくても良いんじゃない?原曲と違っても面白いだろうし、黒木バージョンってことで

という言葉だ。おそらくこれを言った本人は覚えていないだろうし、大して深い意味を込めていなかったのかもしれないが、「他の人が歌った方が良いとか考えず、私は私の歌でバンドをやってもいいんだ」と許された気がしたのだ。このクリスマスライブ以降も私の声、歌い方とはイメージの違う曲をやることがあったが、その度にこの言葉を頼りに歌い続けることができた。だからといって完全に原曲を無視するということはせず、下手なりに歌い方のニュアンス、込める気持ちを変えていったつもりである。特に引退ライブではバラードもあったのでいつも以上に意識したが、果たして一年生の時から成長できていただろうか。

 

2年生に進級すると初めての新歓ライブがある。この新歓ライブで初の耳コピ曲であるねごとの黄昏のラプソディ(下の動画の3:20~)を披露したが、この頃には「いや、楽器隊ほんとすごいな……」という尊敬の念がかなり強くなっていた。ちなみに、引退ライブの部室練でも「ねごとが今までシトロンでやった曲の中で一番うまくできた気がする、音源聴いててバランスいいと思った」と植山が言っていたのできっと完成度が高かったのだろう。そんなこんなで、この頃には「シトロンのボーカル」というよりも「シトロンの楽器隊のファン」と形容した方がより自分の立ち位置が正確に表せているんじゃないか、と思うようになった。


ねごと 2014-12-6 LIVE

 

 そして。尊敬の念が強まったことが引き金となり、新歓ライブを終えたあたりから私は暗黒期に突入した。バンド内でトラブルがあったわけではない。本当に自分勝手な話だが、単刀直入に言えばシトロンのボーカルを務めることが重荷だと感じるようになったのだ。ライブをするたびにちょくちょく耳に入る「シトロンってうまいよね」という褒め言葉ですら、私にはきつかった。なんというか、自分の歌に自信がなさすぎるのが全ての元凶なのだが、その時の私は自分が歌えば歌うほどシトロンの足を引っ張っているんじゃないか、という地獄のような思考に陥っていた。まさに1年の7月ライブで感じたあの重圧が限界点を突破して一気に襲いかかっていたのだ。

 

さらに、同期の女ボーカルであるたなひなはちゃんと歌い方にキャラというか、らしさというか、ちゃんと他のボーカルと差別化できているスタイルがあって、バンドで映えていた。それに比べ、自分はどうだろうか……と考えることも増え、そのたびに辛くなった。たなひなからすれば勝手に比較対象にされ、勝手に病まれてたまったものではないかもしれないが、ボーカルの方向性が違うとはいえやはり唯一の同期の女ボーカルということもあってかなり比べてしまう時期もあった。

 

だから、前撮りの都合で7月ライブに出られないとなったときは内心すごく安心した自分がいた。ひとまず7月は歌わなくて済むんだ、と開放感すら感じていた。

 

ただ、9月ライブが近づくとまた憂鬱な気持ちが募っていった。7月ライブはインストと中田のキーボボーカル、そしてそらくんをヘルプで呼ぶことでちゃんとバンドとして成立していたから、私が歌わんでもいいのでは?という無責任な考えも生まれていたのだ。かなりクソなボーカルである。

 

あぁ、「楽しくやる」ってなんだろうな、とバンド組みの時の会話を思い出しながらぼんやり自問自答するようになった。純粋に音楽をやってる瞬間を楽しむこと?バンドとしての完成度を高めること?ひたすら巧さを追求していくことなのか?完全にわからなくなっていた。「楽しさ」が何を指すのかわかっていなかったが、間違いなくその頃の自分はバンドを楽しいと思えなかった。引退までまだ一年以上あるけどこのままバンドをやりきれるかな、楽しくないのにバンドをするのは他のメンバーに対して失礼ではないか、辞めた方が悩まずに済んで気が楽になるんじゃないか……なんて考えが何度も脳裏をよぎる。完全に一人で暴走して沼にどんどん沈む構図である。別に他人から何か言われたわけでもないのにここまで悩めるのはある意味すごいよ、と当時の自分を笑い飛ばしてやりたいくらいだ。

 

と、こんな感じで泥沼にズブズブだった私がどうやってそこから抜け出したのか。それは他でもない、シトロンのおかげであった。シトロンのことで悩んだのに、シトロンに救われるあたりやっぱり自分はバンドメンバーに心底惚れ込んでいるファンなんだな、と痛感した。すなわち、悩んだ自分はシトロンのボーカルとしての自分だったが、救われたのはシトロンのファンとしての自分がいたからこそだと思うのだ。きっかけは9月ライブの部室練での出来事だった。

 

9月ライブの部室練のために学館に向かう足取りはかなり重かった。初の合わせ練習だったが、きっと楽器隊はいつも通り難なく通しで演奏できるんだろう、私は音が怪しいところもあるし上手く歌えないけど……と卑屈な気持ちしかなかった。特に9月ライブでは私のリクエストが通って事変の電波通信をやることになっていたが、リクエストしておきながら肝心の自分が完成度一番低いんだろうな、と考えてしまいバンドで合わせることを楽しみにする気持ちよりも苦しさの方が優っていた。

 

そんな暗い気持ちで部室に入ると、そこには4月の新歓ライブ以来に集まったシトロンのメンバーがいた。いつも部室練では中田が場を和ませてくれるのだが、その時も例に漏れず中田が他愛のないことを言っていた。特段面白いことを言って場を湧かせていたわけでもないのだがそれがたまらなく私の黒く凝り固まった心を溶かした。そして、いつも通り「まずは一回合わせてみようか」という植山の一言で私の大好きな電波通信を、4人が演奏し始めた。


【中文字幕】東京事變 電波通信 (live)

  鳥肌が立った。思わず口元が緩んだ。いや、もうなんなんだうちのメンバーは、と。単純に楽器が上手いというだけではなく、4人の演奏からまとまりを感じたし、こんなに最高なメンバーと一緒にバンドを組んでいるのはすごく幸運で恵まれた事なんだと衝撃が走った。それと同時に、この楽器隊の演奏で歌えるのはシトロンのボーカル、私だけなんだと気づくとどうしてあんなに下らないことで悩んでいたんだ、と思えた。自分の歌が下手だとか、完成度がどうとか、そういうことを気にして楽しくなるわけがない。バンドなんだから自分の歌だけ気にしたって仕方ないのだ。「4人が演奏する音を楽しむ」のが一番大事で、その演奏に乗せるように歌わないともったいないと気付かされた。バンドを辞めるなんてもってのほかである。この4人の演奏を一番近くで聴き続けたい、だから引退まで私はシトロンで歌おうと、そう思えた途端に一気に目の前が開けた。

 

暗黒期を抜け出せた私は、また1年生の時みたいにただただ楽しくバンドができた。自分の歌のことで悩むことがなくなったわけではないが、それでも4人が演奏するのを聴くたびにワクワクしたし、このメンバーでどこまでいけるのかが知りたくてしょうがなかった。御祭騒ぎは2年の早稲田祭でやったのだが、おそらくこのあたりの選曲から中田のキーボが鬼畜の筋肉ゲーになり始めた気がする。初めてボーカルエフェクターを使ってラジオボイスにしたのも御祭騒ぎでした。そういえば初のCymbalsも2年の早稲田祭でしたね。コミュニケーションをブレイクするダンスもしました。


Tokyo Jihen Omatsuri Sawagi

 

2年の早稲田祭が終わるとあっという間に2度目のクリスマスライブを迎え、1つ上の代が引退した。こう見えて涙もろいので先輩たちのエモシーは結構ジーンときたし、特に温野菜のめるさん、ももさんがライブを終えた後に泣きながら抱き合っているのを見て大きく心揺さぶられた。引退の時にそんなに感慨深くなれるほどサークル、バンド活動に思い入れがあるんだな……と二人の胸中を推し量ると、自分もああいう涙を流したいな、とふと思った。この時に自分たちの引退を初めて意識したかもしれない。一年後の引退ライブでは、どんな気持ちでどんな曲をやるんだろうか、と。3年になってからの部室練でもちょくちょく「ゆーて引退は泣かないっしょ、このバンドの人皆ドライだからな〜」みたいな会話をしていたが、そんな中でも私は(や、自分は泣くかもな……)と内心思っていたのは内緒だ。

 

さて、一個上の代が引退したということは、私たちが幹部代になり、これまで先輩たちが作ってきたコナを引き継ぐことになる。私はヒラ部員ではあったが、ちゃんと新歓期に新入生を集められるだろうか、3年生バンドとして魅せることができるだろうか、なんて色々思いを巡らせるようになった。ただバンドを楽しむだけではなく、後輩の存在を意識してライブに臨まないといけないんだな、という幹部代としての覚悟が芽生えたのだ。特に「新入生をしっかり新歓する」という部分はコナの存続にかかってくる部分だったので新歓ライブのセトリはかなり気合いを入れて考え、練習も普段より力を入れた。アイス休憩が大好きなシトロンが、この時はアイスも食べずひたすらnight museumをループして練習したのも良い思い出だ。部活並みの熱量あったね……。この時期は同期と顔をあわせるたびに頼むからドラム入ってきてくれ〜なんて言ってたのが懐かしい。

 

そしていよいよ3年に進級し、2度目の新歓ライブを迎えた。この新歓ライブには忘れられないエピソードがある。この時のセトリは以下の5曲だ。

・夢見る隙間/aiko

・怒れる小さな茶色い犬/Cymbals

・night museum/カラスは真っ白

・サイノロジック/アカシック

・SUPERCHARGER/PENGUIN RESEARCH


リスアニ!TV〉PENGUIN RESEARCH - SUPERCHARGER cut

 

シトロン全開な4曲と、キメる感じの心臓アフターバーナーで挑んだのだが、この時のライブを見てコナに入ることを決めてくれた後輩がいたのだ。それがかわしぃだった。おそらく自分は後輩から見たらかなりとっつきにくい先輩だったと思うが、ありがたいことに仲良くしてくれる可愛い1年生の後輩ができた。それだけですでにめちゃくちゃ嬉しいのだがその中でもかわしぃは私の中で特別な後輩だった。かわしぃはロマーノのコンパでも卓が一緒で、喋るのが苦手な私が一生懸命新歓した1年生だった(かわしぃが話してくれるので助かった)し、新入生ライブも一緒に組んでSCANDALの少女Sをやった。あの新入生バンドは本当に楽しかった……。パピコを半分こして食べたりオムライス食べたりたざわとゆるくギターを一緒にできて青春してたね、練習のたびに徐々に曲として完成していく過程が肌で感じられてすごくよかった。


SCANDAL shoujo S (LIVE)

 

かわしぃはコナに入った時、そして引退でもらった寄せ書きアルバムでこう伝えてくれている。

自分がバンドサーに入ろうと思ったのはC¡tron!の演奏を聴いてだったので

それまでは完成度の高い演奏ができたか、ということに気を取られがちで聴いた人たちがどう受け取ったか、ということまであまり意識していなかった。けれど、このかわしぃの言葉をきっかけにライブに臨む時、そして歌うときに込める気持ちが大きく変わった。もっと自分たちの演奏を聴いてくれ!!という思いが強まったのもこれがきっかけである。

大げさかもしれないが、自分たちのライブを聴いた人に「何か」を残すことができるようなバンドになったんだ、ということが一番実感できて本当に嬉しかったし、そういう「何か」をどんどん聴いている人にぶつけられるようなライブをしたいと考えるようになった。だから、あの新歓ライブは自分にとって特別なものだった。

 

7月ライブを迎え、1年生の固定バンドがお披露目となった。固定バンドでの初ライブを見るのが一番好きかもしれない。固定としてのスタートを切る瞬間をこの目で見て、これからどんなバンドになっていくのか見守れるのが良いよね。1年生は初心者が多いと聞いていたがバンドパッションの高い子が多く、どのバンドも初ライブなのにめちゃ良い感じに演奏していてかなり刺激を受けた。自分も3年生として頑張らないと、後輩から目標とされるようなボーカル、バンドでありたいな、なんて厚かましくも思っていた。7月ライブでやった曲の中だと、事変が好きというシシィ〜を結構意識して歌ったは先輩バンドとしての底力を見せたるぞ、という気持ちが私の中にあった。


心 (Kokoro)

 

 

実はこの7月ライブを機に、私はライブ中に楽器隊を意識的に見るようになった。きっかけはフォトページでぱいせんがめちゃめちゃ激アツにギターを弾いている様子を目にし、ギュンときたからだ(語彙力)。それまでは歌っているときに周りを見ている余裕がなかったのだが、普段メンバーはどんな感じで演奏しているんだろう、と気になり、思い切って見るようにしたのだ。部室練の時も壁の方を見て、耳で音だけ聴いて練習をしていたのでライブの時に演奏をしているメンバーを見るのが密かな楽しみになった。個人的にはやはりぱいせんがギターを楽しそうに弾いているのを見るのが一番好きだった。こうくんも中田も植山もどちらかというと冷静な感じで演奏しているのだが、ぱいせんは曲の展開に合わせてノリ方が変わるのがすっごくよかったのだ。

 

ぱいせんが楽しそうにギターを弾いているのを見るのが好きな理由は他にもある。基本的にシトロンの曲選は、ぱいせんが普段聴く曲の趣味とはズレたものが多かったんじゃないかと思う。とはいえぱいせんは曲決めの時もあまり主張が強くなく、たまに曲を提案する時もごく控えめだった。曲決めで決まった曲を毎回弾きこなしてくれているが、果たしてぱいせんはシトロンでギターを弾いてて退屈に思っていないか…?と何度も気になった。けれど、そんな私の心配はあのライブ中のぱいせんの姿を見るたびに振り捨てられた。どこかホッとするというか、嬉しさというか、そういうのがごちゃ混ぜになった感情でいっぱいになったのだ。だから、ライブ中はギターを見ることが一番多かった気がする。激エモギタリストぱいせんの姿を見ることで私はより歌に入り込むことが出来た。

 

ちなみに、7月ライブでやったキノコホテルのもえつきたいのはぱいせんが「ちょっとやってみたいかも」と提案した曲なのだが、曲を聴いた瞬間にかなり好きになり、ワンマンにも行くほどハマった。これ以外にも良い曲がたくさんあるのでぜひこのブログを読んだ人は聴いてほしい。私はおねだり・ストレンジラヴもすこである。


キノコホテル「もえつきたいの」 PVフル  - kinocohotel -

 

7月ライブを終えると残りの固定ライブが9月、早稲田祭、そしてクリスマスライブしかないことに気付き、いよいよ引退を視野に入れて残りの選曲を考えるようになった。3年生に入ってからはもう自分の歌い方がどうとか悩むことが皆無になり、そんなことよりも4人が演奏する曲をたくさん聴きたいし他の人にも聴いてほしいという気持ち、つまりバンド愛の高まりがとどまるところを知らなかった。

 

特に、現役最後の早稲田祭で一旦エモの頂点に達した。早稲田祭のセトリはバチバチのおしゃれ系で固めよう、ということで

・デモクラシークレット/パスピエ

・My Patrick/Cymbals

・女/アカシック

・本能/椎名林檎

・丸の内サディスティック/東京事変

の5曲になった。アカシックの女は中田がどうしてもやりたい、と早稲田祭以前から推し推しまくっていた曲で、ようやくここで実現することとなった。

3年のアー写は自撮りで撮ろうと2年の時から言っていたのでカメラマンを呼ばず、小学校居酒屋に行って歩く自撮り棒こと植山が撮ってくれた自撮りをアー写に採用した。ちなみに、バンドメンバーで飲みに行ったのは何気にこの時が初めてである。飲みにいくよりも先にメイドカフェに行ったバンドはおそらくシトロンだけだろう。

 

早稲田祭のセトリの曲はどれも歌ってて本当に楽しくて、練習に入るのが待ち遠しかったし、早稲田祭本番のライブでは多くの人に見にきてほしいと思った。それまでは緊張するからあまり知り合いに見られたくない、という気持ちが若干残っていたがこんなにバチバチのライブを見ないなんてもったいない、見にこなきゃ損だよ!何よりもかっこいい楽器隊の演奏を一度でいいから生で聴いて欲しい、という思いが爆発していた。

 

そんな私の気持ちが通じたのか、早稲田祭当日はおかげさまで多くの人がライブに足を運んでくれた。そして、早稲田祭リハライブよりも満足のいくライブができ、かなり達成感があった。ライブを終えた後、聴きにきてくれていた学部の友達から「本当にうまかった、固定ってすごい」「昔一回ライブを見たときよりも歌がうまくなってた」という言葉をかけてもらい、あぁ自分もちゃんとシトロンで成長できていたんだな、と思えて嬉しかった。

なによりも、早稲田祭のライブでの演奏はいつも以上に演奏の息が揃っているというか、一体感をビリビリ感じていて、もはや演奏を聴くことに心地良さすら感じていた。女のフュージョンは激アツかったし、歌ってて気持ちよかったのだ。個人的には丸の内サディスティックが結構気に入っている。


東京事変 - 幕ノ内サディスティック

 

そして、一番感慨深かったのが大学1年の時から早稲田祭を見にきてくれていた友人からのラインだった。

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 互いの背中を任せあっているような一体感、というのは固定バンドでなければ絶対に生まれなかっただろうと思うし、それが見ている人に伝わるようなライブができたことで、いよいよシトロンとして有終の美を飾るのに相応しいところまで来てしまったな、と実感したのだ。本当に終わりが近いんだな、と思うとなんだか少し寂しさもあったがシトロンがラストの瞬間を迎えた時、どんな姿を見せるのかということが掴めるところまできたことは喜ばしくもあった。

 

そして、引退ライブ。1人1曲やりたい曲をやって引退しようということで曲を決めた。なので、当初は5曲やる予定だったのだが、忙しくて1曲は泣く泣く削ることになった。削ってしまったのは植山が挙げたCOSMIC BOX/YUKIである。この曲、2年の夏頃からずっとやりたいと言い続けて温めてきた曲だったのだが出来ずじまいだったので復活ライブまで持ち越しになるのだろう。引退のエモエモセトリは以下の4曲である。

 

・幸せじゃないから死ねない/アカシック→中田

君は薔薇より美しい/布施明→ぱいせん

・私生活/東京事変→こうくん

群青日和/東京事変→黒木

 

なんとなく誰がどの曲を挙げたのか、プロのサークル員なら分かったかもしれない。この引退ライブに関しては27日にやったあのライブが全てだ。史上最高に「楽しく」ライブができたし、それは楽器隊の演奏からも明らかに伝わってきた。部室練の時にはなかった気迫のようなもの、一体感、そういうものがあの時の演奏に全て込められていた。

 

群青日和をやる直前に私が言った

「引退前最後のシトロンをその目でしかと焼き付けろって感じですね」

というセリフ、かなりふざけたことを言ってんなコイツ、と思われたかもしれないがあれは誇張でもなんでもなく本心から出た言葉である。あの群青日和を見て何か感じてくれた人が一人でもいれば、本望である。


東京事変 群青日和 live

 

ただ、引退ライブに関してもう一つ語りたいことがある。こうくんのことだ。ご存知の通りこうくんは忙しいリコキャンの民でありながらバンドサーを複数兼サーしており、コナ以外でライブをやる機会がたくさんあった。ドラム、バンドへの熱意は誰よりも強かったし、かなりストイックに音楽と向き合っててすごいな、と常に感心していた。だからこそ、私はこうくんが一番怖かった。もう少し正確にいうと、音楽に真剣なこうくんにとって、シトロンはどんなバンド、居場所だったのだろうか、と。それを知るのがずっと怖かった。たくさんバンドを組んでいればそれだけ音楽を表現できる居場所が多いことを意味しているし、それらを比較することだってできてしまう。こうくんは多くを語る人ではないから、何を考えているのか全て掴みきれないことが多かった。シトロンでドラムを叩く時、何を考え、何を感じているのか。固定を組んだことを後悔していないか、なんてことをかなり長期にわたって思案していたのだ。

 

でも、この答えは群青日和の演奏で全部知ることができたと思っている。青く燃えてゆく東京の日、とラストのフレーズを歌いきって後奏を聴きながら、もう終わってしまうんだな、なんて思いながら演奏しているメンバーの姿を目に焼き付ける。ギターを弾くぱいせん、キーボを弾く中田、ベースを弾く植山。そして、最後にくるりと振り返りドラムを叩くこうくんに視線を送る。その瞬間、息が一瞬止まった。今まで、私は冷静かつ正確にリズムを刻むこうくんしか見たことがなかった。それは早稲田祭の時ですらそうだった。が、その時私が見たのは全身全霊、感情を込めてドラムを叩くこうくんの姿だった。楽しそうな笑顔を浮かべながら、残りわずかな演奏に全てを賭けて叩いているのを目にしたあの瞬間が一番「あぁ、引退ってこういうことなのか」と実感し、目元が潤んだ。きっと、どのメンバーもシトロンに愛着があったんじゃないかな、と最後の最後に思えたし、それが本当に愛おしかったのだ。

 

ステージを降りると、たくさんの人が温かい感想、言葉をかけてくれた。そして、飲み会では嬉しい寄せ書きがいっぱいのアルバムもいただいて、3年間シトロンとしてやりきってよかったな、と心の底から思えた。

 

そして、帰りの電車で中田からもらった手紙を読んだ。キーボで固定を組めるとは思っていなかったことやバンドが楽しくて2年の途中で吹奏楽をやめ、コナ一本に絞ったことが書かれていて、そんなこともあったなぁと懐かしくなった。バンドが楽しい、と思えたきっかけがシトロンだったのが嬉しかったし、中田がいたからこそシトロンのカラーが生まれたと思っているのでシトロンを語る上で欠かせない存在だったなぁと改めて認識した。シトロンの代名詞とも言える事変もアカシックaikoCymbalsも、キーボの中田がいなければやることはできなかった。シトロンの可能性を広げてくれたのは他の誰でもない、中田だった。バンドメンバーという関係にとどまらず、いろんなところに気軽に遊びに行ったり美味しいものを食べにいくことが多かったし、価値観、考え方も共感することの多い一人の貴重な友達として仲良くできたことも、コナに入ってシトロンでバンドを組めたからこそだと思っている。バンドはしばらくお休みになるが、いつでも遊びに行きたいし就活が終わったら今度こそ旅行をするしかない。この場を借りて手紙の返事としよう。笑

 

……と、こんな感じで無事にサークルから引退したが、これで終わりではない。1年後の早稲田祭に望まれなくても復活する気満々だし、ライブも見に行きたいな、と思っている。なんなら永遠に不潔な銀魂バンドのために企画ライブに顔を出すまである。ぜひ疎まず温かく受け入れてほしい。

 

このブログで言いたかったことは、エモい!!!!!の一言に尽きます。こんな感情の勢いだけで書き進めた駄文をここまで読んでくれてありがとうございました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

「友情と恋愛の線引き」とは何か、モテない女子大生が真剣に考えてみた

 友人としてはいいけど、恋人としては考えにくい。いわゆる恋愛対象外という枠だ。まさに私はその典型例である。冒頭から自虐で申し訳ないが、これは20年と数ヶ月生きてきた中で何度も気付かされてきた事実である。友達として仲良くする分には問題ないが、どうしても恋愛となると、相手が私を「恋愛対象」として意識している事が少ないように感じる。実際、私が恋愛として好きだな、と思っていた相手から、私のことをそういう風に見たことが全くなかった、と言われたことすらある。サラッと書いているが、結構ショックが大きかった出来事だ。

 

  そんなモテとは無縁である私が、高校生の時から友達と何度も議論を重ねてきたあることについて今回話そうと思う。それは、「友情と恋愛の線引き」だ。早速次の項目から本題に入っていくことにする。

 

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▶︎私も恋愛対象として見られたいぞオラオラ、という気持ちで友情と恋愛について真剣に考えてみました。

 

「男女の友情」は存在するのか?

 本題に入る前に素朴な疑問を投げてみる。古来から何度も議論されてきているだろうこの問いは、人によって出される答えが異なってくるに違いない。なぜならば、これはどっちが正解でどっちが不正解、という問いではなく、価値観によってその人なりの答えが変わってくる問いだからだ。

  ちなみに、男女の友情はあり得る、と私は思っている。もう少し言ってしまうと、男女の友情は成り立たない、と感じたことは一度もないし、そもそも成り立たない理由が思い浮かばないのだ。実際に、私にとっての良い友人は誰ですか?と問いかけられれば、同性の友達はもちろん、男友達のことも思い浮かぶ。性別に関わらず、良い友人になることは可能だと思っている。でも、これはあくまで私の考えで、きっとこの記事を読んでいる人の中には男女の友情なんて結局のところあり得ない、と思う人もいるだろう。 

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▶︎フレンズとドッタンバッタン大騒ぎするの、たーのしー!

 

そもそも「友情」と「恋愛」の違いって?

 では、この考えの違いはどこから生まれてくるのか。先述したように、この問いへの答えは人それぞれの価値観の違いから生まれてくるに違いない。その中で最も大きな影響を及ぼす部分が「友情と恋愛の線引き」だ。少なくとも女性の読者であれば一度は経験したことがあると思うのだが、「良い人」と「好きな人」の違いが一体何であるのか分からなくなった事はないだろうか?あるいは、恋人に求める条件を聞かれた時に、「一緒にいて楽しい人」と答えることは結構多いように感じるが、この「一緒にいて楽しい」というのは友達でも充分ではないだろうか、と思った事はないだろうか。そうして、上手く説明はできないが、確かに友達は良い人だし一緒にいて楽しい、けど、恋人にするにはまたちょっと違う、という結論に達することを何度も繰り返したこともあるかもしれない。

  このように、はっきりとは掴めないが、友情と恋愛を分けるなんらかの線引きが存在していることに気付く場面に、何度も遭遇したことがあるはずだ。

  この線引きの根底には何があるのだろうか。友情と恋愛の間にある大きな違いは、当たり前だが「恋愛的な好意の有無」だ。書くまでもない、と思うかもしれないが、結局のところこの「恋愛的な好意」が一番わかりやすい要素なのだ。

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▶︎誰が恋愛として好いてくれているのか赤い糸的な感じで目に見えたら便利なのに……と何度思ったことか

「友情」の好意と「恋愛」の好意は全くの別物なのか?

 男女の友情が成立しない、という考えの人からよく聞かれる声には「友人と思っていても、どちらか一方が恋愛感情を抱いてしまった時点で、もう一方の信頼を裏切ることになるから友人関係は崩壊する。とても脆い関係である」といった旨のものが多いように感じる。

  だが、少し矛盾するようなことを言ってしまうが、この恋愛的な好意と友情としての好意が共存することはあり得ないのだろうか?と私は尋ねてみたいのだ。恋愛的な好意が生まれる過程にはおそらくいろんなパターンがある。一目惚れ、相手からの好意を受けて自分も相手を好きになる、友人として仲良くしているうちに好きになる。ざっとあげるだけでもこの3パターンが浮かんでくる。他にも色んなパターンがあるだろう。このように、好きになる過程は多種多様であるが、どのパターンであっても、ある質問に対する答えはおそらく全員同じものになるのではないか?と私は考えている。そのある質問とはこれだ。

 

「恋愛的な意味で好きなその相手は、友達として仲良くしたいと思える人か?」

 

 顔が非常に好みなだけで性格に関しては不問・悪くても目をつぶれる、というタイプの人は例外だが、そうでない場合はおそらく「友達としても仲良くしたいと思える」と答えるはずだ。

 つまり、友情としての好意と恋愛的な好意というのは全く別物ではないと言える。もう少し正確に言うと、友情としての好意を満たす時、それは恋愛的な好意の土台もまた満たしていると言えるのではないか。だから、仮にどちらか片方が相手に対して恋愛的な好意を抱いたとして、それが相手にとって完全なる裏切りにあたるかどうかを考えると、私はそうではないのではないと思うのだ。言ってしまえば今まで相手に抱いていた友情としての好意と恋愛的な好意の根底はなんら一切変わっていない。恋愛的な好意を抱いた=友人関係の崩壊、ではない。友情としての好意が消失したわけではないからだ。むしろ、友情としての好意に+αしたものが恋愛的な好意であるのだから、友情の延長線上に位置したものであるのも言える。

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 ▶︎友達だと思ってたあいつのことをいつの間にか好きになってた、っていう展開、王道だけど好きです

 

 「友情」に何が加われば「恋愛」としての好意へ変貌するのか

 友情、恋愛の各々において、ある一定のラインまでは同じ判断材料を元に好意を相手に抱いてると言えることが上記から導き出された。極端な言い方をすれば、友情と恋愛は99%同じ性質で、残り1%の違いで2つを違うものへ区別している。その1%の違いが恋愛的な好意であり、線引きであり、人それぞれの持つ価値観の相違だ。

 その1%はずばり、「自分が優れている・魅力的だと感じられる相手の魅力」だ。肝心の結論が漠然とした表現となってしまった。どういうことなのか説明してみよう。

 

 恋愛とは極めて本能的なものだとされている。恋愛はロマンティックな詩的表現で描かれがちなものだが、突き詰めていけば種の存続のための闘争である。それは子孫を残すという、直接的な話に限ったものではない。いかにリスクの少ない平穏な生活を送っていけるか・精神の安寧を保てるかといった、質的な意味も含まれていると考えている。これだけだとあまりピンとこないかもしれないので具体例を挙げてみる。

 

 例えば、自分に自信を持てない人が、他者(特に恋愛対象となる人物)から好意を抱かれることで、自己肯定感が高まると考えられる。今までコンプレックスに思っていたことでも、「容認してくれる人がいる・その点含めて好きになってくれた」と前向きに考えられるようになるのだ。そうなると自分に自信を持てるようになり、あらゆる面において意欲が湧く……ということは十分ありえるだろう。自分に自信のない人に限らず、程度に差はあれどの人にも同様のことがいえる。人は自分という人格・存在を認め、そして求めてくれる人物の存在によって精神面における充足を得られる。これが質的な種の存続(自分という個の平穏な存続)の具体例だ。

 

 ここまでの説明なら、「友達として仲良くしていても相手の自己肯定感を高めることはできるんじゃないの?」と思う人がいるかもしれない。誤解を恐れずはっきりと言うと、友達だけでは不十分なのだ。

 正確に言うと、友達によって満たされる自己肯定感と恋人によって満たされる自己肯定感は、別の次元のものだと思うのだ。友達によって満たされる自己肯定感はなくてはならないもの・低次元のものになり、それが満たされるとあると満足するもの・高次元の自己肯定感の充足を求めるようになる。これはマズロー欲求階層説と同じ原理だと考える。

 嫌な言い方になってしまうが、高次元の自己肯定感を満たそうとするならば、「自分にとって特別な人・魅力的な人」から自分を認めてもらえなければ不十分なのだ。

 何もこれは「友人は特別・魅力的ではない」と言いたいわけではない。友人になっている時点でその相手に対してシンパシーやら共通点やら、何か人として接していきたいと思える点があるといえるのだから当然魅力があることを認めているし、優れている点だって必ずある。

 

 しかし、ここでいう「自分にとって特別な人・魅力的な人」というのは「一般的に良しとされている能力・人格・外見をもつ人物」ではない。「強く自分が憧れ・渇望している能力・人柄・外見をもつ人物」である。言うまでもないがこれは人によって憧れや求めている要素が異なるため、何を以って相手を魅力的であると評価するかが変わってくる。要するに、恋愛対象になりうる人は、一般的なものさしではなく主観的なものさしで測った時に強く秀でていると感じられる魅力があるはずなのだ。そして、その魅力が複数あればあるほど好意の強さも大きくなる。

 なぜ主観的に「魅力的」と感じた要素の方が強く作用するかというと、主観は価値観によって支えられているものだからである。価値観にそぐわない魅力は、その人にとっては「単なる特性」に過ぎない。逆も然りだ。多くの人からはなんとも思われないその人の特性が、ある人にとってはものすごく「魅力的」に見えることだってある。

 私の場合、「自分よりもスマートで人との接し方が上手い人」がすごく魅力的に見える。自分より効率良く物事をこなせる人や、自分にはない社交性を持つ人は魅力的な人物に映るのだ。そして、おそらく「社交的な人」というのは一般的に見ても好まれる特性だろう。しかし、例えば他の人が同じ人物を見たときに「社交性」を「八方美人」と評価し、それを魅力と捉えないケースがあるかもしれない。もしくは、自分も社交的である人の場合、「社交的」であることに対して強い魅力や憧れを感じることがなく、特段評価しないことも考えられる。さらに、「社交性」があることは評価するが、それだけ人との繋がりが多いと浮気の機会が多いのかも……と、「魅力的だからこそマイナスに作用する」とみなす人だっている。(レアケースかもしれないが)。

 また、「外見」という要素に関しては、友情よりも恋愛において求めることの方が圧倒的に多い。もちろん外見の好みも人によって様々だ。具体的な好みがなかったとしても、「清潔感があれば良い」「それなりに服装に気を使っていれば良い」のようなラインは必ず存在し、人によって求めるレベルが大きく異なる。なぜなら、先ほどまで述べてきた「能力・人格」と比べ、「外見」は直感による判断の部分が大きいからだ。そのため、「魅力的」に感じるかどうかの判定が「能力・人格」よりも個人に大きく左右される要素だと言える。

 そのため、一般的・多くの人からの評価よりも、あくまで自分自身の相手に対する評価が一番重要になるというのが分かったのではないか。

 

 露骨な表現をあえてすれば、人は「強く自分が憧れ・渇望している能力・人柄・外見」を持つ人のことを、「自分よりも価値の高い人間」「自分にとって最も魅力的な人物」であると主観的に判断している。そして、単純に考えて、自分よりも優れている・もしくは強く魅力を感じている人物から自分を認めてもらった方が、自分の価値を正しく評価された、という気持ちや満足感、嬉しさが増す。この時にはじめて高次元の自己肯定感が満たされるのだ。

 つまり、恋愛では無意識のうちに質的な種の存続というのを前提に据えており、それをできる限り高次元なものとして達成できそうな人物に対して恋愛的な好意を抱くようになっている、と考えるのは全く不自然ではない。乱暴な言い方をすれば「自己肯定感を満たすために恋人を作る」部分が誰しも少なからずあり、そこが友情と恋愛のそれぞれにおいて求めることの最大の違いとも言える。恋愛では自己肯定感の充足という面を無視することはできず、またそれは批判することではないと思う。

 

 とはいえ改めて強調したいのは、自己肯定感の充足だけが恋愛の目的ではないということだ。純粋に相手ともっと接したい・何気ない毎日を共にしたいから「恋人」という枠に入り、一緒にいる正当な理由が欲しい、という部分が恋愛の基本的かつ大部分を占めていると考えている。自己肯定感がどうとか相手への評価がどうとかそういう小難しい話ばかりで恋愛が成立しているわけではないというのを付け加えておく。

 

 以上が、相手に対して抱く好意が「友情」なのか「恋愛」なのかという線引きは「自分が優れている・魅力的だと感じられる相手の魅力」によって行われているという私なりの結論の説明となる。

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▶︎「好きな人に好かれるのが一番幸せ」というのはおそらくそういうことだと思います。

 

「恋愛」と「憧れ(推し)」の違い

 「でも、自分にとって強い魅力を持っていることがイコールで恋愛としての好意に繋がるわけではないのでは?恋愛ではなく”憧れの人物”になることだってあるじゃないか。それに、友達に対しても強い魅力を感じることだってある」という反論が聞こえてきそうだ。確かに、それはその通りだと思う。憧れの存在、の他にも「推し」といった表現も同様の存在を指していると思う。この場合は、「能力・人格・外見」の要素を「能力・人格」と「外見」の二つに分けてみる必要がある。分け方もいくつか考えられるが今回は一番わかりやすい方法で分ける。

 

 一概には言えないが、「能力・人格(内的要素)」と「外見(外的要素)」の両者が「一定の基準」を超えて初めて恋愛としての好意が生まれると考えている。もちろん、どちらか片方が極端に飛び抜けており、片方のマイナス部分を補えるほどであれば、その場合も恋愛としての好意が生まれることもある。しかし、冒頭でも記事内でも少し話したような「友達としては良いけど恋愛としてはちょっと違う」となるときは高確率でどちらかの要素が「一定の基準」を超えていないのだ。

 いうまでもないが、人によって内的要素と外的要素のどちらを重視しているかは異なる。どちらかというと内的要素を重視している人であれば内的要素の基準が高めになるし、外的要素を重視している人であればそちらの基準が高くなる。どちらの基準も低い・高いといったことも十分考えられる。

 

 それを踏まえて「憧れの人物(推し)」止まりになる理由を考えると

①単純に内的・外的要素のいずれかが「一定の基準」を超えていない

②その人以上に魅力的だと感じている人がいる(そのことを本人が自覚していない。恋愛的な好意はその時自分が最も魅力的だと感じている人に対して抱きやすい)

③そもそも「友達」としての土台が弱い(先述の通り、友達としての親密さ・好意+αが恋愛であるケースが多いため)

④その相手と恋愛関係になるのが非現実的だと考えている(実現可能性のある相手じゃないと、質的種の存続の面において合理的でない選択となる。)

 

という4つのパターンが考えられる。そのため、ある面において強い魅力を感じていてもそれがイコールで恋愛にならないことも普通に考えられると言える。

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▶︎クラスの憧れの存在ってやっぱり自分とは別世界というか、親しさよりも距離がありますよね、ソレです

 

 

 結論を述べよう。友情と恋愛の線引きとは何か。

相手が自分にとって”超魅力的”であり、なおかつその人から好かれることによって満たされたいと思えるかどうかが線引き。

 きっとこういうことである。ものすごく当たり前のことだが、やはり当たり前の考えが当たり前として定着している裏にはそれなりに納得のいく理由が存在しているのだ。それを自分なりに文章にしてみたが、これを読んだあなたはどう考えただろうか。

 長々と書いてきたが、結局のところ単純に一緒にいて楽しければそれだけで友人という枠に入れるが、恋人枠に入るにはそれだけじゃ飽き足らない、ということが言いたかったのだ。文章中で友情と恋愛の大きな違いに「自己肯定感を満たしてくれるか否か」ということを指摘したが、そんなロマンもクソもない結論じゃ納得できない!という人がいたらこの場を借りてお詫び申し上げようと思う。

 

 おまけ程度に触れておくと、この「友情と恋愛の線引き」であれば、本題に入る前に少し話した「男女の友情」について私が「男女の友情は成立する」といった理由もなんとなくわかってくれるのではないだろうか。相手が異性だから、という理由だけですぐ恋愛に直結する、と考えるのは短絡的だと感じるからだ。恋愛対象の性別に当てはまっているというだけで誰彼構わず好きになるわけではない。そもそも、私は友情が成立しない男女間に恋愛が成立するわけないだろ、と思うのだ。あくまで個人の考えだが。

 

 そして、ここまでの説明を踏まえると、冒頭の疑問に対し、自分で答えを出すこともできる。そう、なぜ私は友達どまりで恋愛対象として見られないのか?

好きな人にとっての魅力的な人物が私ではない。

 なんと単純明快な答え。しかし、これが真理であり一番納得のいく答えであると私は自信を持って言える。同様の悩みを持っているあなたにもこの答えが響くのではないだろうか。好きな人にとっての魅力的な人物になるか、それとも今のあなたを魅力的だと感じてくれる人が現れるのを待つか。それはあなた次第だ。

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▶︎いつまでも 喪女と思うな 見ておけよ/黒木、心の俳句

 

 この記事ではかなり一面的な部分から検討したため、「いや、こういう場合はその考えは当てはまらないんじゃないか」とか、「そういう考えならこういうパターンだってあり得る」といった考えが出てきてもおかしくない。そもそも恋愛と友情の概念を突き詰めようとすること自体が非常に難しいことであるため、かなり強引に書き進めた部分もある。いろんな人の意見が聞いてみたいところだ。

 なにはともあれ、「あぁ、喪女をこじらせた女子大生はこういう考えをするんだな」といった程度に、なんらかの共感だったり同情(?)だったり、少しでもこれを読んだあなたに何かを残せれば幸いだ。

 

 また時間のあるときに記事を更新しようと思います。

 

大学デビューの結論としての黒髪ショート

黒木といえば黒髪ショートカットだ(知らなかった人は今覚えておこう)。

黒髪ショートカットというのはおしゃれに無頓着な自分がこだわっている唯一の部分でもある。

今日はそのこだわりの話を少し。

 

中学、高校の時も一時期はセミロングだったが、基本的にショートだった。

当時ショートにしていた理由は単純、「楽だから」である。

ロングヘアーだと髪を乾かすのも大変、不器用だから上手に自分の髪を結べないし、結べてもひどく不恰好な出来になる。だから、切ったら切りっぱなしのショートが面倒くさがりな私に一番適した髪型だったのだ。

あとは、きっと当時からもショートに愛着というか、親しみというか、好感を抱いていたなぁと思う。そういう感情含めてショートでいるのが楽だ、と感じていたのだ。

 

そんな私に一度転機が訪れる。受験勉強に明け暮れていた高3の秋頃、勉強の合間に、無事に大学生になれたとしたらどんなキャンパスライフを送れるだろうか……といった空想をよく繰り広げていたのだが、その空想を何度も巡らせた結果、「ロングヘアーになって大学デビューしよう」、という結論が自分の中で出たため、髪を伸ばし始めたのだ。

 

ロングヘアーにしようと思った理由も単純だ。ロングヘアーの方が男受けが良い、女の子らしく見えるという世の風潮に素直に自分も乗っかろうと思ったのだ。周りがそうだから自分もそうしよう、という同調意識そのものである。今思うと非常に情けない話だ。

 

それからというもの、何度も湧き出る髪を切りたい欲を赤本を解く事で紛らわせ、そのまま入試当日を迎え、無事に大学に合格し、晴れて何度も夢に見たキャンパスライフが春から始まることになったのだ。この頃にはもう髪を切りたい、と思うこともほぼなかった。そりゃそうである、なんせ「ロングヘアーで大学デビュー」、が現実になる日が目前に迫っていたからだ。

実際大学に入学した頃はロングではなく、せいぜい肩につくかつかないかくらいのセミロングの長さだった。ロングと呼ぶにはまだほど遠いものの、しかし当時の私はこれで私の華のキャンパスライフは完璧である、とすら思い込んでいた。ほんの数センチ髪が伸びただけなのに、だ。

 

しかし、入学してから1ヶ月ほど経った時、私は現実に直面する。

 

当たり前だが、人というのは環境が大きく変わったところで自分まで大きくいきなり変わることなんて不可能なのだ。いや、手っ取り早く変えられるような外見……例えば髪の毛を明るく染めてみたり、ワックスで髪を盛るとか、気合い入れて化粧して不自然なくらいにケバくなっちゃうといった試行錯誤を経て雰囲気をガラリと変える、といったことは出来る。また、最初だけ頑張って今までの自分とは大きく異なるようなキャラで人と接することはできるだろう。

しかし、それらはやはり全てハリボテとまでは言わなくとも、目に見える表面の部分だけの変化であり、自分を自分たらしめる根本的な部分の変化とは異なる。

 

自分に似合っているかどうか、を考えず、手っ取り早くイメチェンしたい!周りも染めてるし!といったテンションで髪を染めた人なら、どうしてもその人自身の魅力を引き出せないような、没個性的な髪型になってしまうことが多々あるだろうし、それらしき人を春のキャンパスで何人も見かけるものだ。逆に言ってしまえば、自分に似合う髪色に染めたなら、それは自分の新たな魅力の開花であり、本当の意味での自分自身の変化と呼べるもので間違いない。そして、外見に関してはいくらでも試行錯誤を重ねられるため、まだ良い。

 

特に問題なのは高校の時とは全く違うようなキャラへの方向転換を試みるケースだ。

実際、入学を機にキャラのマイナーチェンジ、くらいが現実的であり、成功率も高いのだが、やはり新しい環境で生活するなら今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろう、なんて思うのだろう、大幅なキャラチェンジを目論む人が一定数いる(私もその内の一人である)。これは、関係が浅いうちならまだいいが、そこから話す機会が多くなってきたり一緒に行動することが多くなって仲が深まりはじめる頃には大抵ボロがではじめる。何故か?答えは簡単。例えば十数年間人見知りとして生きてきた人間が、たった数週間、一ヶ月ほどで誰とでも隔てなく話せる社交的な人物になりうるだろうか?全くないとは言い切れないが、限りなく難しいに違いない。それが出来る人は元から社交的な人物としてのポテンシャルを持っており、大学入学を待たずに皆と仲良くする事ができる場合がほとんどだと思うのだ。

 

長年自分に染み付いていた性格はそう簡単に変えられない。それが自分の悪い部分だったとしても、それ含めて自分を自分たらしめている要素なのだから、簡単に変えられるわけがないのだ。基本的に今の自分というのは、一番自分が居心地よく、平穏に生活できるような思考、行動、性格から成り立っている。それをリスクを冒してわざわざ変えようとするのは生半可な覚悟では難しいものである。仮に変えようと行動に移せた場合でも、その新しいキャラが今までの自分とは相反するものだったら、自分自身が一番違和感を抱く。その違和感を咀嚼し、吸収できない場合はそれを自分の中から排除しようとする(つまり元の性格であり続けようとする)。まるでアレルギーに対する免疫反応のようだ。

 

とにもかくにも、上記の理由から、短期間で無謀なキャラチェンジを試みる場合、多くの場合は中途半端なキャラになるか、結局変われないかの2パターンの結末で落ち着いてしまうのだ。しかも厄介な事に、入学初期においては、相手がどんな人、どんな性格なのかを知る事は、今後の人間関係を構築する上では欠かせない行為になってくるため、大抵の人は何度か関わった人のキャラをある程度把握しようと努力するのだ。そのため、接し始めからしばらく経った頃に、キャラチェンジの失敗を理由に(相手は、キャラチェンジの事実すら知らないことを念頭に置かねばならない)、キャラチェンジのキャラをさらにチェンジさせる、もしくは大学入学前の本来の自分に戻る(これも相手からすればキャラチェンジと捉えられる)、といったことをすると、どれが本当のキャラなのか?いまいちどういう人なのか掴みにくい、といった印象を相手に与える可能性があり、円滑な人間関係の構築の障害になるかもしれない。

これらのリスクを踏まえたうえで、本当に自分はキャラチェンジをするのか否か、といったことを検討するのが安全であり自分自身のためでもあるのだ。(もしこれを読んでいる人のなかに、大学入学じゃなくとも、何かしらの転機に乗じて「自分改革」をしようと考えている人がいるなら、このことを一度自分に当てはめて考えて欲しいと切に思う。)

 

 

これらの現実があることに、当時の自分はそこまで考えが及ばなかったのだ。

いや、及ぶわけがなかった。繰り返すようだが、髪をセミロングにしただけで何もかもうまくいくと思い込むくらいには脳内お花畑状態だったのだ、その私が冷静に物事を考えられるわけがないのだ。

私が大学デビューしようとした内容には、先ほどから挙げている「髪の毛を伸ばし少しでも女の子らしくなる(男受けのいい外見を目指す)」に加え、「コミュ障を克服し、男女関わらず多くの友人を作る(人見知りの克服)」といったものがあった。今の私を知っている読者であれば、この時点で多くを察しただろう。

 

入学してすぐの頃は、女子大生なんだから、とそれまでまともにやったことのなかったメイクを毎日欠かさずしていたし、初対面の人相手でもなんとか接しようとした。自分から人と接する機会を増やそうとしたこと自体が冒険に近いものだった。

高校の頃みたいな、地味で誰からも興味を持たれないような人物から変わり、色んな人と仲良く関わり、勉強も恋愛もバイトも充実した生活を送るための「自分改革」期間であった入学当初というのは、期待と楽しみの気持ちは確かにあった。けれど、それ以上に新しい環境に慣れようとすることと、自分を変えるために慣れないことをし続けるダブルの疲れが想像以上のものであり、それは着実に私の中に蓄積していった。

 

入学から1ヶ月も経つ頃には、もう、夢から醒めていた。

 

冷静に考えて、私が高校生の時に絶望的にモテなかったのは、髪の長さの問題ではなく、極度に緊張して異性とまともに話さない、話そうとしなかった点にあったではないか。なぜその決定的な理由を見落として、受験生だった頃の私は髪型を変えればきっと彼氏ができると思い込んでしまったのか?受験勉強の疲れで判断力が鈍ったのか、はたまた無意味とわかっていながらも、自分がモテない理由をどこかに転嫁したかったのかもしれない。

しかも、人見知りを変えようと入学してから自分なりに努力していく中で、広く浅くの人間関係が一体自分にとって何の良いことがあるのか?とふと疑問が浮かんだのだ。人間関係は損得勘定で築くものではないと理解しているが、それでも、仲良くなりたい、もっと相手のことを知りたいと思えない人と無理に関係を維持していく労力が無駄だと感じたのだ。今後仲良くなるのかわからない人のために精神削ってまで接する必要はあるのか?時間をかけてでも、自分と気の合いそうな人を見つけ、その人と深く仲良く接していけば十分ではないか?という考えに行き着いたのだ。

 

そう気付いた時、私は私の好きなように生きるのが一番である、と痛感した。

世の中の風潮、大多数の考え、はそれとして存在しているが、それらが一体私にどう影響を与えようというのか。量産型ファッションのように、一見したらどれも同じに見えるような没個性の枠組みの中になぜ自ら進んで入る必要があるのか。「世の普通」「普通の大学生」の枠に入って自分を殺すくらいなら、枠の外で、自由気ままにやる方がよっぽど楽しいに決まっている。

そう、自分がこうありたい、こうしたい、という明確な考えがあるならば、それを貫き通すべきなのだ。外野の声に耳を傾ける必要はない。そして、世の中に大多数がいるならば、少数派も必ず存在しているのだ。自分を理解してくれる少数派と出会い、その人たちと仲良くすることができれば、これ以上望むことがあろうか。大学に入学してからもうすぐ3年経つが、私は幸いにも自分を自分として認めてくれる友人に出会えたため、それだけでこの大学に進学して良かったと感じている。(相手が自分のことをどう思っているのか、を考え始めるとキリがないため相手も自分と同様に思ってくれてることを信じるのみだ。)

 

このことに気づいた私は、せっかく伸ばしていた髪を切り、ショートに戻した。

そこから今日まで、ずっとショートヘアーである。

今、私がショートヘアーにしている理由は、「ショートが好き」だからだ。

ショートは男受け悪い、と腐る程聞いてきた。彼氏が欲しいな、とよく思う私にとって、男受けの悪い髪型をすることは自分にとってマイナスであるはずなのだ。

でも、ショートの髪型が一番自分に似合っていると思っているし、ショートの女性を見ると、かっこいいな、と思うのだ。かわいい女の子、よりもかっこいい女の人、に憧れる私は、自分もショートにして、かっこいい女の人に形だけでも近づきたい、と思っている。そのためなら男受けなんて二の次である。むしろ、ショートが好きじゃない男はこっちから願い下げだわ!という勢いである(私に願い下げされてもダメージを負う人がいないのも分かってて書いてる)。

髪の毛を黒髪のままにしているのは、黒髪ショートがかっこいいと思っているからだ。

 

黒髪ショートというのは、周囲の流行り、一般的な受けの良さを無視し、自分が自分の好きなように生活をしていることの表れなのだ。

 

茶髪のパーマのかかったかわいい女の子が好きな大多数の男の好みになるのではなく、自分の好きなように生活した結果、ショートでかっこいい女の人が好きな少数の男の好みになっていた、というのを目指したいし、そういう男の人と付き合えたりできれば、正直私の大学生活はもう満点である。

 

私の黒髪ショートにはこんな背景がありましたとさ。

変容する自分 と 取り残される心

初更新。思い立って開設。

ブログ自体は中学生の時に頻繁に更新していたから、テーマは違えどこうしてまたまとまった文章を好きなだけつらつらと書いて投稿する場ができたのは懐かしい気持ち。

高校、大学では専らツイッターに耽ってしまい、文章の推敲にさほど気を使わなくて済む短文投稿に慣れてしまい、読む相手を意識した文章を書く機会が減ってしまったことに少し危機感を覚えたのがこのブログを開設した理由の一つだったりします。

 

このブログでは、この時期の自分だからこそ悩むようなこと、うまく表現できないような「なにか」を、他の人に共有できるように、もしくは言葉を用いて一つの表現を与えることで自分自身を納得させるために、言語として、文章として「なにか」を昇華しようと試行錯誤する場になるかと思います。内容自体もありきたりなものになるかと思うので目新しいものを求める人には向かないかも。気が向いたり暇な時に覗いてくれれば嬉しいです。

 

さて、そろそろ本題に。

初回の更新は「変容する自分 と 取り残される心」について。

いわゆる過渡期ってやつです。私はまさに過渡期真っ只中です。皆さんはどうでしょうか。

私が高校生の時、大学受験において進路を決める時、志望校を決める時、進学先を決める時、どのタイミングでも「将来のことなんてわからないのに、けれどここで自分が成す選択がきっと将来の自分を行き先を決めるんだろうなぁ、こわいな」といった不安を漠然と感じていたことがあったけど、これも今思うと過渡期の中にいるからこそ生まれるものだと思うんですよ。

念のためネットで過渡期の意味を検索すると、「移りかわりの途中の時期。物事の移りかわりの最中で、まだ安定していない時期」だそう。

となると自分を取り巻く環境の移りかわり、自分自身の移りかわりの最中が過渡期なんだから、高校生の時に感じていた不安は、「ひどく不明瞭だが、今後の自分の人生を大きく左右してしまう予感を感じさせる過渡期」を上手に舵切る自信がなかったことから生じたもので間違いないし、大学生の私が今感じている不整合感もまた過渡期の荒波に揉まれている証拠でもあると思うんですね〜。

 

Q.大学生になった今の私が感じている過渡期とは?

ずばり、答えはこの記事のタイトル。

A.変容する自分 と 取り残される心

まさにこれなんですよ!

なんとなく理解できるかもしれないけれど、一つずつ説明してみます。

 

「変容する自分」=子供から「大人」へと変わる自分。

高校を卒業して大学に入学した途端、人間関係も行動範囲も今までとは比べ物にならないくらい一気に開け広がり、自由と責任が与えられました。

大学生はいわば「大人」として社会に出るための予行練習期間だと思うんです。(一応断っておくとなにも大学生にならないとこの予行練習期間がないわけではなく、高校生の間に例えばバイトの経験を積極的に積むことを通して「大人」になる予行練習をして社会に出る人だって当然いる。が、今回は大学生に焦点を当てて話を進める。)

法律で定められた成人年齢を迎えれば「大人」に自動的になれるものだと小さい頃は思ってた。そうでなくとも、大学4年間はモラトリアムと呼ばれているくらいなのだから、焦って「大人」になる必要はない、ゆっくり少しずつ「大人」になろう、と大学に入った頃はあまり重く受け止めず、気楽に考えていたけどね。でも、実際20歳を迎えてから早2ヶ月以上経った今、「自分は『大人』になれていますか?」なんて聞かれたら即座に首を横に振る。

予行練習期間である大学生活の中で、バイトで社会常識を身につけ、サークルで上下関係の中での人付き合いを学び、様々な出会いを通して好きな人が出来て、恋愛に現を抜かしたり。もちろん自分の興味関心のある勉学に励むことも、全部「大人」になるために大事な要素だということには多くの人が気づいていると思うのです。けれど。

 

何を以って「大人」になれたと言えるのか。私はその答えが分からない。正直自分が「大人」になる想像が全くつかないのだ。

 

けれど、だからといっていつまでも自分が「大人」にならず、子供のままでいることは許されるのか?

答えは「ノー」。社会は、私たちに「大人」になることを常に要求してきているからだ。ちらっと前述したように、20歳が法律上での成人年齢であるという事実はもちろん、進学に伴って一人暮らしを始める時、お年玉がもらえなくなったりいつの間にかクリスマスにサンタが来なくなった時、成人を迎える頃に家に届く国民年金の書類、結婚や出産が遠い話のように思えなくなる瞬間、就活。それらの一つ一つが確実に私たちの子供からの脱却を着々と押し進めている。つまり、自分が「大人」がなんたるかを理解しているか否かが重要なのではなく、所定の時期までに必ず「大人」という枠組みの中に入ることが私たちは求められているのだ。このあたりが「変容する自分」の根幹の部分となっている。そして、「取り残される心」にも関わってくる。

 

「取り残される心」=「大人」へと変容せざるを得ない状況に対する自分の戸惑いの気持ち・周囲の人から置いていかれるような気持ち。

これは絶ッッッッッッッ対、誰しもが一度は感じているはず、というか現在進行形で感じている人がほとんどだと思うのですが、まさしく。

その心情がこの「取り残される心」。

自分は社会から「大人」になることを要請されている環境の中で生きているけれど、そんな簡単に「大人」にはなれない。そもそも「大人」になるために手探り状態の日々を過ごしていてはいるけれど、自分なりの「大人」の答えを見つけ出し、自分がそんな「大人」になることが出来る、なんて確証はどこにもない。私はそんな不安を飼い慣らしながら生活している。すると、精神が子供な私は幾度も

 

「社会が『大人』になれって言ってようが、そんなん知ったこっちゃない。私は今が楽しんだからそれでいい、先のことなんて考えたくない。まだまだ子供でいたい……」

 

なーんて、こんなことをぼんやりと、しかし強く心から思う。このような「大人」になることへの放棄、逃避なんかは、変容しないといけない状況におかれつつも自分の気持ちが取り残されていることの分かりやすい表れだ。

 

また、大学に行くと周囲には自分と全く同じ境遇に置かれた友人がいる。そこで、互いが互いをまだ「大人」になりきれていない、子供のままでいることを望んでいるような段階に踏みとどまっているんだろうなと認識できるうちは、「まだ仲間がいたんだ」、という安堵感を覚えるに留まるだろう。

しかし、もし友人が自分より先に明確な将来の進路を見つけていたとしたら?進路の実現のためにインターンや何か熱中出来る活動に参加していたら?進路だけじゃない、友人の方がバイトの時間を有意義なものとして使えていたり、恋愛も順調だったり、順調じゃなかったとしてもそれを経験の一つとして人間的な深みを得られていた時、どう感じるだろうか?もしかしたらそれはいわゆる「隣の芝生は青い」ものかもしれない。けれど、同じ位置にいると思っていた友人が自分よりも先に進んだ位置にいるような、置いていかれたような気持ちを抱いてしまったら。その瞬間、八つ当たりとまではいかなくとも、友人を素直に応援する気持ちになれないことだってきっとあるはずだ。少なくとも私は大学に入ってから何度も何度も、この気持ちを味わったし、友人を応援できない自分の心の余裕のなさにも気付くことでさらに自己嫌悪した。

このように、友人が着々と「大人」への一歩を踏み出せているのに、私だけ何も変わってない……といった焦りを感じる心。これも「取り残される心」であるのだ。

 

 

「大人」になることを求めてくる社会。

「大人」とは一体なんなのか?明確な答えは明示されていない。

けれど、必死に「大人」の枠組みに入ろうとする自分。

そんな急激な「大人」への変化の中で追いつかない心、精神。

 

これが今の私の過渡期の全容だ。

簡潔にまとめてしまえば、求められている肩書き(「大人」)と中身(心)が一致していないことへの違和感、不安、といったところだろう。

ここまで読んでくれた人は「まあ、それは当然だよな」って感じの結論で肩透かしを食らったかもしれないけど、でも冒頭に目新しいことは書かないって書いてるから問題ないはず。(?)

自分の置かれた現状をこうやって書き留めておくことで整理できることだってあるからこの初回の更新、テーマは無駄じゃなかったと思いたい……。

 

来年から大学三年生ってなかなか信じがたいけど、時期が時期だから今まで以上に大学卒業後の進路を真面目に考えないといけないし、インターンも春休みから本格的に始める中で、この過渡期の変容する自分と取り残される心問題は何回も自分の中で浮上してきそうだなぁ。ただ、私は進路とかに関しては正直そこまで心配はしてないんですよ。いや、心配はしているけれど、全く目処が立っていないわけでもないし、自分の好きなこととかやってみたいことはある程度わかってて、それを実践できる機会を用意できてるからね。

となると、なんとなく薄々気づいている方もいるかもしれませんが、その通り。現時点で特に自分が一番「大人」になる上で一番足りていない経験、要素が「恋愛」だと思っているので、またいつかの記事で長々と恋愛の話でも書こうかと思います。

 

気づいたら日付が変わってたし、ゼミを平穏に離脱するための課題レポート終わらせてないし、この記事の文字数がその課題レポートの指定字数を優に超えてしまってたので寝ます。おやすみなさい。