「友情と恋愛の線引き」とは何か、モテない女子大生が真剣に考えてみた

 友人としてはいいけど、恋人としては考えにくい。いわゆる恋愛対象外という枠だ。まさに私はその典型例である。冒頭から自虐で申し訳ないが、これは20年と数ヶ月生きてきた中で何度も気付かされてきた事実である。友達として仲良くする分には問題ないが、どうしても恋愛となると、相手が私を「恋愛対象」として意識している事が少ないように感じる。実際、私が恋愛として好きだな、と思っていた相手から、私のことをそういう風に見たことが全くなかった、と言われたことすらある。サラッと書いているが、結構ショックが大きかった出来事だ。

 

  そんなモテとは無縁である私が、高校生の時から友達と何度も議論を重ねてきたあることについて今回話そうと思う。それは、「友情と恋愛の線引き」だ。早速次の項目から本題に入っていくことにする。

 

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▶︎私も恋愛対象として見られたいぞオラオラ、という気持ちで友情と恋愛について真剣に考えてみました。

 

「男女の友情」は存在するのか?

 本題に入る前に素朴な疑問を投げてみる。古来から何度も議論されてきているだろうこの問いは、人によって出される答えが異なってくるに違いない。なぜならば、これはどっちが正解でどっちが不正解、という問いではなく、価値観によってその人なりの答えが変わってくる問いだからだ。

  ちなみに、男女の友情はあり得る、と私は思っている。もう少し言ってしまうと、男女の友情は成り立たない、と感じたことは一度もないし、そもそも成り立たない理由が思い浮かばないのだ。実際に、私にとっての良い友人は誰ですか?と問いかけられれば、同性の友達はもちろん、男友達のことも思い浮かぶ。性別に関わらず、良い友人になることは可能だと思っている。でも、これはあくまで私の考えで、きっとこの記事を読んでいる人の中には男女の友情なんて結局のところあり得ない、と思う人もいるだろう。 

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▶︎フレンズとドッタンバッタン大騒ぎするの、たーのしー!

 

そもそも「友情」と「恋愛」の違いって?

 では、この考えの違いはどこから生まれてくるのか。先述したように、この問いへの答えは人それぞれの価値観の違いから生まれてくるに違いない。その中で最も大きな影響を及ぼす部分が「友情と恋愛の線引き」だ。少なくとも女性の読者であれば一度は経験したことがあると思うのだが、「良い人」と「好きな人」の違いが一体何であるのか分からなくなった事はないだろうか?あるいは、恋人に求める条件を聞かれた時に、「一緒にいて楽しい人」と答えることは結構多いように感じるが、この「一緒にいて楽しい」というのは友達でも充分ではないだろうか、と思った事はないだろうか。そうして、上手く説明はできないが、確かに友達は良い人だし一緒にいて楽しい、けど、恋人にするにはまたちょっと違う、という結論に達することを何度も繰り返したこともあるかもしれない。

  このように、はっきりとは掴めないが、友情と恋愛を分けるなんらかの線引きが存在していることに気付く場面に、何度も遭遇したことがあるはずだ。

  この線引きの根底には何があるのだろうか。友情と恋愛の間にある大きな違いは、当たり前だが「恋愛的な好意の有無」だ。書くまでもない、と思うかもしれないが、結局のところこの「恋愛的な好意」が一番わかりやすい要素なのだ。

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▶︎誰が恋愛として好いてくれているのか赤い糸的な感じで目に見えたら便利なのに……と何度思ったことか

「友情」の好意と「恋愛」の好意は全くの別物なのか?

 男女の友情が成立しない、という考えの人からよく聞かれる声には「友人と思っていても、どちらか一方が恋愛感情を抱いてしまった時点で、もう一方の信頼を裏切ることになるから友人関係は崩壊する。とても脆い関係である」といった旨のものが多いように感じる。

  だが、少し矛盾するようなことを言ってしまうが、この恋愛的な好意と友情としての好意が共存することはあり得ないのだろうか?と私は尋ねてみたいのだ。恋愛的な好意が生まれる過程にはおそらくいろんなパターンがある。一目惚れ、相手からの好意を受けて自分も相手を好きになる、友人として仲良くしているうちに好きになる。ざっとあげるだけでもこの3パターンが浮かんでくる。他にも色んなパターンがあるだろう。このように、好きになる過程は多種多様であるが、どのパターンであっても、ある質問に対する答えはおそらく全員同じものになるのではないか?と私は考えている。そのある質問とはこれだ。

 

「恋愛的な意味で好きなその相手は、友達として仲良くしたいと思える人か?」

 

 顔が非常に好みなだけで性格に関しては不問・悪くても目をつぶれる、というタイプの人は例外だが、そうでない場合はおそらく「友達としても仲良くしたいと思える」と答えるはずだ。

 つまり、友情としての好意と恋愛的な好意というのは全く別物ではないと言える。もう少し正確に言うと、友情としての好意を満たす時、それは恋愛的な好意の土台もまた満たしていると言えるのではないか。だから、仮にどちらか片方が相手に対して恋愛的な好意を抱いたとして、それが相手にとって完全なる裏切りにあたるかどうかを考えると、私はそうではないのではないと思うのだ。言ってしまえば今まで相手に抱いていた友情としての好意と恋愛的な好意の根底はなんら一切変わっていない。恋愛的な好意を抱いた=友人関係の崩壊、ではない。友情としての好意が消失したわけではないからだ。むしろ、友情としての好意に+αしたものが恋愛的な好意であるのだから、友情の延長線上に位置したものであるのも言える。

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 ▶︎友達だと思ってたあいつのことをいつの間にか好きになってた、っていう展開、王道だけど好きです

 

 「友情」に何が加われば「恋愛」としての好意へ変貌するのか

 友情、恋愛の各々において、ある一定のラインまでは同じ判断材料を元に好意を相手に抱いてると言えることが上記から導き出された。極端な言い方をすれば、友情と恋愛は99%同じ性質で、残り1%の違いで2つを違うものへ区別している。その1%の違いが恋愛的な好意であり、線引きであり、人それぞれの持つ価値観の相違だ。

 その1%はずばり、「自分が優れている・魅力的だと感じられる相手の魅力」だ。肝心の結論が漠然とした表現となってしまった。どういうことなのか説明してみよう。

 

 恋愛とは極めて本能的なものだとされている。恋愛はロマンティックな詩的表現で描かれがちなものだが、突き詰めていけば種の存続のための闘争である。それは子孫を残すという、直接的な話に限ったものではない。いかにリスクの少ない平穏な生活を送っていけるか・精神の安寧を保てるかといった、質的な意味も含まれていると考えている。これだけだとあまりピンとこないかもしれないので具体例を挙げてみる。

 

 例えば、自分に自信を持てない人が、他者(特に恋愛対象となる人物)から好意を抱かれることで、自己肯定感が高まると考えられる。今までコンプレックスに思っていたことでも、「容認してくれる人がいる・その点含めて好きになってくれた」と前向きに考えられるようになるのだ。そうなると自分に自信を持てるようになり、あらゆる面において意欲が湧く……ということは十分ありえるだろう。自分に自信のない人に限らず、程度に差はあれどの人にも同様のことがいえる。人は自分という人格・存在を認め、そして求めてくれる人物の存在によって精神面における充足を得られる。これが質的な種の存続(自分という個の平穏な存続)の具体例だ。

 

 ここまでの説明なら、「友達として仲良くしていても相手の自己肯定感を高めることはできるんじゃないの?」と思う人がいるかもしれない。誤解を恐れずはっきりと言うと、友達だけでは不十分なのだ。

 正確に言うと、友達によって満たされる自己肯定感と恋人によって満たされる自己肯定感は、別の次元のものだと思うのだ。友達によって満たされる自己肯定感はなくてはならないもの・低次元のものになり、それが満たされるとあると満足するもの・高次元の自己肯定感の充足を求めるようになる。これはマズロー欲求階層説と同じ原理だと考える。

 嫌な言い方になってしまうが、高次元の自己肯定感を満たそうとするならば、「自分にとって特別な人・魅力的な人」から自分を認めてもらえなければ不十分なのだ。

 何もこれは「友人は特別・魅力的ではない」と言いたいわけではない。友人になっている時点でその相手に対してシンパシーやら共通点やら、何か人として接していきたいと思える点があるといえるのだから当然魅力があることを認めているし、優れている点だって必ずある。

 

 しかし、ここでいう「自分にとって特別な人・魅力的な人」というのは「一般的に良しとされている能力・人格・外見をもつ人物」ではない。「強く自分が憧れ・渇望している能力・人柄・外見をもつ人物」である。言うまでもないがこれは人によって憧れや求めている要素が異なるため、何を以って相手を魅力的であると評価するかが変わってくる。要するに、恋愛対象になりうる人は、一般的なものさしではなく主観的なものさしで測った時に強く秀でていると感じられる魅力があるはずなのだ。そして、その魅力が複数あればあるほど好意の強さも大きくなる。

 なぜ主観的に「魅力的」と感じた要素の方が強く作用するかというと、主観は価値観によって支えられているものだからである。価値観にそぐわない魅力は、その人にとっては「単なる特性」に過ぎない。逆も然りだ。多くの人からはなんとも思われないその人の特性が、ある人にとってはものすごく「魅力的」に見えることだってある。

 私の場合、「自分よりもスマートで人との接し方が上手い人」がすごく魅力的に見える。自分より効率良く物事をこなせる人や、自分にはない社交性を持つ人は魅力的な人物に映るのだ。そして、おそらく「社交的な人」というのは一般的に見ても好まれる特性だろう。しかし、例えば他の人が同じ人物を見たときに「社交性」を「八方美人」と評価し、それを魅力と捉えないケースがあるかもしれない。もしくは、自分も社交的である人の場合、「社交的」であることに対して強い魅力や憧れを感じることがなく、特段評価しないことも考えられる。さらに、「社交性」があることは評価するが、それだけ人との繋がりが多いと浮気の機会が多いのかも……と、「魅力的だからこそマイナスに作用する」とみなす人だっている。(レアケースかもしれないが)。

 また、「外見」という要素に関しては、友情よりも恋愛において求めることの方が圧倒的に多い。もちろん外見の好みも人によって様々だ。具体的な好みがなかったとしても、「清潔感があれば良い」「それなりに服装に気を使っていれば良い」のようなラインは必ず存在し、人によって求めるレベルが大きく異なる。なぜなら、先ほどまで述べてきた「能力・人格」と比べ、「外見」は直感による判断の部分が大きいからだ。そのため、「魅力的」に感じるかどうかの判定が「能力・人格」よりも個人に大きく左右される要素だと言える。

 そのため、一般的・多くの人からの評価よりも、あくまで自分自身の相手に対する評価が一番重要になるというのが分かったのではないか。

 

 露骨な表現をあえてすれば、人は「強く自分が憧れ・渇望している能力・人柄・外見」を持つ人のことを、「自分よりも価値の高い人間」「自分にとって最も魅力的な人物」であると主観的に判断している。そして、単純に考えて、自分よりも優れている・もしくは強く魅力を感じている人物から自分を認めてもらった方が、自分の価値を正しく評価された、という気持ちや満足感、嬉しさが増す。この時にはじめて高次元の自己肯定感が満たされるのだ。

 つまり、恋愛では無意識のうちに質的な種の存続というのを前提に据えており、それをできる限り高次元なものとして達成できそうな人物に対して恋愛的な好意を抱くようになっている、と考えるのは全く不自然ではない。乱暴な言い方をすれば「自己肯定感を満たすために恋人を作る」部分が誰しも少なからずあり、そこが友情と恋愛のそれぞれにおいて求めることの最大の違いとも言える。恋愛では自己肯定感の充足という面を無視することはできず、またそれは批判することではないと思う。

 

 とはいえ改めて強調したいのは、自己肯定感の充足だけが恋愛の目的ではないということだ。純粋に相手ともっと接したい・何気ない毎日を共にしたいから「恋人」という枠に入り、一緒にいる正当な理由が欲しい、という部分が恋愛の基本的かつ大部分を占めていると考えている。自己肯定感がどうとか相手への評価がどうとかそういう小難しい話ばかりで恋愛が成立しているわけではないというのを付け加えておく。

 

 以上が、相手に対して抱く好意が「友情」なのか「恋愛」なのかという線引きは「自分が優れている・魅力的だと感じられる相手の魅力」によって行われているという私なりの結論の説明となる。

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▶︎「好きな人に好かれるのが一番幸せ」というのはおそらくそういうことだと思います。

 

「恋愛」と「憧れ(推し)」の違い

 「でも、自分にとって強い魅力を持っていることがイコールで恋愛としての好意に繋がるわけではないのでは?恋愛ではなく”憧れの人物”になることだってあるじゃないか。それに、友達に対しても強い魅力を感じることだってある」という反論が聞こえてきそうだ。確かに、それはその通りだと思う。憧れの存在、の他にも「推し」といった表現も同様の存在を指していると思う。この場合は、「能力・人格・外見」の要素を「能力・人格」と「外見」の二つに分けてみる必要がある。分け方もいくつか考えられるが今回は一番わかりやすい方法で分ける。

 

 一概には言えないが、「能力・人格(内的要素)」と「外見(外的要素)」の両者が「一定の基準」を超えて初めて恋愛としての好意が生まれると考えている。もちろん、どちらか片方が極端に飛び抜けており、片方のマイナス部分を補えるほどであれば、その場合も恋愛としての好意が生まれることもある。しかし、冒頭でも記事内でも少し話したような「友達としては良いけど恋愛としてはちょっと違う」となるときは高確率でどちらかの要素が「一定の基準」を超えていないのだ。

 いうまでもないが、人によって内的要素と外的要素のどちらを重視しているかは異なる。どちらかというと内的要素を重視している人であれば内的要素の基準が高めになるし、外的要素を重視している人であればそちらの基準が高くなる。どちらの基準も低い・高いといったことも十分考えられる。

 

 それを踏まえて「憧れの人物(推し)」止まりになる理由を考えると

①単純に内的・外的要素のいずれかが「一定の基準」を超えていない

②その人以上に魅力的だと感じている人がいる(そのことを本人が自覚していない。恋愛的な好意はその時自分が最も魅力的だと感じている人に対して抱きやすい)

③そもそも「友達」としての土台が弱い(先述の通り、友達としての親密さ・好意+αが恋愛であるケースが多いため)

④その相手と恋愛関係になるのが非現実的だと考えている(実現可能性のある相手じゃないと、質的種の存続の面において合理的でない選択となる。)

 

という4つのパターンが考えられる。そのため、ある面において強い魅力を感じていてもそれがイコールで恋愛にならないことも普通に考えられると言える。

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▶︎クラスの憧れの存在ってやっぱり自分とは別世界というか、親しさよりも距離がありますよね、ソレです

 

 

 結論を述べよう。友情と恋愛の線引きとは何か。

相手が自分にとって”超魅力的”であり、なおかつその人から好かれることによって満たされたいと思えるかどうかが線引き。

 きっとこういうことである。ものすごく当たり前のことだが、やはり当たり前の考えが当たり前として定着している裏にはそれなりに納得のいく理由が存在しているのだ。それを自分なりに文章にしてみたが、これを読んだあなたはどう考えただろうか。

 長々と書いてきたが、結局のところ単純に一緒にいて楽しければそれだけで友人という枠に入れるが、恋人枠に入るにはそれだけじゃ飽き足らない、ということが言いたかったのだ。文章中で友情と恋愛の大きな違いに「自己肯定感を満たしてくれるか否か」ということを指摘したが、そんなロマンもクソもない結論じゃ納得できない!という人がいたらこの場を借りてお詫び申し上げようと思う。

 

 おまけ程度に触れておくと、この「友情と恋愛の線引き」であれば、本題に入る前に少し話した「男女の友情」について私が「男女の友情は成立する」といった理由もなんとなくわかってくれるのではないだろうか。相手が異性だから、という理由だけですぐ恋愛に直結する、と考えるのは短絡的だと感じるからだ。恋愛対象の性別に当てはまっているというだけで誰彼構わず好きになるわけではない。そもそも、私は友情が成立しない男女間に恋愛が成立するわけないだろ、と思うのだ。あくまで個人の考えだが。

 

 そして、ここまでの説明を踏まえると、冒頭の疑問に対し、自分で答えを出すこともできる。そう、なぜ私は友達どまりで恋愛対象として見られないのか?

好きな人にとっての魅力的な人物が私ではない。

 なんと単純明快な答え。しかし、これが真理であり一番納得のいく答えであると私は自信を持って言える。同様の悩みを持っているあなたにもこの答えが響くのではないだろうか。好きな人にとっての魅力的な人物になるか、それとも今のあなたを魅力的だと感じてくれる人が現れるのを待つか。それはあなた次第だ。

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▶︎いつまでも 喪女と思うな 見ておけよ/黒木、心の俳句

 

 この記事ではかなり一面的な部分から検討したため、「いや、こういう場合はその考えは当てはまらないんじゃないか」とか、「そういう考えならこういうパターンだってあり得る」といった考えが出てきてもおかしくない。そもそも恋愛と友情の概念を突き詰めようとすること自体が非常に難しいことであるため、かなり強引に書き進めた部分もある。いろんな人の意見が聞いてみたいところだ。

 なにはともあれ、「あぁ、喪女をこじらせた女子大生はこういう考えをするんだな」といった程度に、なんらかの共感だったり同情(?)だったり、少しでもこれを読んだあなたに何かを残せれば幸いだ。

 

 また時間のあるときに記事を更新しようと思います。

 

【創作】心臓を貫かれた話①

まずはじめに注意書きを。この記事は前3つとは異なり、完全に創作となります。そこまで長くない文章ですが、何回かに分けて更新します。元ネタはツイッターの@mth_blackのアカウントでちょこちょこやっているタグ、 #ふぁぼした方が本だとしたら最初の1行には何と書いてあるか考える にて書いた、とある人の話。

最初の一行といわず、短い作品として書き上げたいな、と思ったのでこちらで書きます。

 

 

『心臓を貫かれた話①』

じんわり、一生をかけて身体中を蝕む毒を「飼って」いる。何もこれは好きでそうしているわけではない。気付いた時には目に見えない矢で心臓のあたりを貫かれており、抜くにも抜けないのだ。この毒に心当たりがあるとすれば、女子高校生だったあの頃だ。

 

大学に入ってからというものの、サークルや他大に通う友達から聞く"恋話"は、最早恋と呼べるものなのか甚だ疑問に思うような、口に出すことも、耳に入ってしまうことも憚れるほど汚らわしく、嫌悪感を抱く行為の晒し合いへと変わっていた。彼らの言う"恋愛"が悪いことではなくむしろごく普通のことだというのは、頭の中では理解しているし、人の数だけ恋愛の形があるのも知った。ただ、それが自分の価値観とは相反するというだけの話だった。何故かは分からないが、性を全面に押し出すこと、積極的になることは悪だ、恥じるべきことだ、……といったような認識が刷り込まれていることに気付かされたのだ。私はこの認識が特段おかしいとは思ってこなかった。けれど、自分が少数派であることを思い知らされるたびに、自分の価値観は異常なのではないか、と不安に駆られ、また、その汚らわしさの克服・受容は、きっと避けられない課題であると悟りもするのだ。

 

だからこそ、いつまでたっても私は高校生だったあの頃を、何度も何度も頭の中で繰り返し辿って、その度に心臓を貫く矢の存在を思い出す。そして、心臓が鼓動を打つ度に、じわりじわり、と矢の刺さっているところから毒が滲み出るのだ。一度に滲み出る量は微量だが、吸収されることも分解されることも排出されることもなく、確実に私の身体中を巡り、蓄積されてゆく。私の飼っている毒は、タチの悪い遅効性の毒で、持続性は数時間から数日。完治することは困難であり、有効な治療法もまだ手探り状態という、厄介なものだ。

けれど、この毒こそが私の初恋であり、結果であり、決して私の中から消し去りたくないものでもある。

 

 

高校生。誰も気にも留めないような些細な一瞬に全力で喜び、本気で落胆し、五感で人を好きになる。初々しさと大人への背伸びが入り混じる、二度と過ごすことの出来ない3年間である。指定された制服を着て、自分のクラスの教室で皆が同じ授業を受ける。あの恐ろしく閉鎖的で規則がいくつも存在する環境こそが、混ざりけの無い好きの気持ちが育つ土壌であると、高校を卒業してから気付いた。

廊下ですれ違う瞬間、教室の窓からグラウンドを眺める瞬間、他のクラスに遊びに行く瞬間、登下校のタイミングが同じだった瞬間。

どれも日常の一部であり、ありふれた場面だ。けれど、そんな変哲のない毎日でも私たちは感情を強く揺さぶられ、必死に平静を装いつつ、密かに強く、相手を想っていた。誰しもそんな時期が確実にあったという事実が耽美的に感じる。

当時の私も、例に漏れず誰にも言えない片思いをした。思えばこれが初恋だった。

大学デビューの結論としての黒髪ショート

黒木といえば黒髪ショートカットだ(知らなかった人は今覚えておこう)。

黒髪ショートカットというのはおしゃれに無頓着な自分がこだわっている唯一の部分でもある。

今日はそのこだわりの話を少し。

 

中学、高校の時も一時期はセミロングだったが、基本的にショートだった。

当時ショートにしていた理由は単純、「楽だから」である。

ロングヘアーだと髪を乾かすのも大変、不器用だから上手に自分の髪を結べないし、結べてもひどく不恰好な出来になる。だから、切ったら切りっぱなしのショートが面倒くさがりな私に一番適した髪型だったのだ。

あとは、きっと当時からもショートに愛着というか、親しみというか、好感を抱いていたなぁと思う。そういう感情含めてショートでいるのが楽だ、と感じていたのだ。

 

そんな私に一度転機が訪れる。受験勉強に明け暮れていた高3の秋頃、勉強の合間に、無事に大学生になれたとしたらどんなキャンパスライフを送れるだろうか……といった空想をよく繰り広げていたのだが、その空想を何度も巡らせた結果、「ロングヘアーになって大学デビューしよう」、という結論が自分の中で出たため、髪を伸ばし始めたのだ。

 

ロングヘアーにしようと思った理由も単純だ。ロングヘアーの方が男受けが良い、女の子らしく見えるという世の風潮に素直に自分も乗っかろうと思ったのだ。周りがそうだから自分もそうしよう、という同調意識そのものである。今思うと非常に情けない話だ。

 

それからというもの、何度も湧き出る髪を切りたい欲を赤本を解く事で紛らわせ、そのまま入試当日を迎え、無事に大学に合格し、晴れて何度も夢に見たキャンパスライフが春から始まることになったのだ。この頃にはもう髪を切りたい、と思うこともほぼなかった。そりゃそうである、なんせ「ロングヘアーで大学デビュー」、が現実になる日が目前に迫っていたからだ。

実際大学に入学した頃はロングではなく、せいぜい肩につくかつかないかくらいのセミロングの長さだった。ロングと呼ぶにはまだほど遠いものの、しかし当時の私はこれで私の華のキャンパスライフは完璧である、とすら思い込んでいた。ほんの数センチ髪が伸びただけなのに、だ。

 

しかし、入学してから1ヶ月ほど経った時、私は現実に直面する。

 

当たり前だが、人というのは環境が大きく変わったところで自分まで大きくいきなり変わることなんて不可能なのだ。いや、手っ取り早く変えられるような外見……例えば髪の毛を明るく染めてみたり、ワックスで髪を盛るとか、気合い入れて化粧して不自然なくらいにケバくなっちゃうといった試行錯誤を経て雰囲気をガラリと変える、といったことは出来る。また、最初だけ頑張って今までの自分とは大きく異なるようなキャラで人と接することはできるだろう。

しかし、それらはやはり全てハリボテとまでは言わなくとも、目に見える表面の部分だけの変化であり、自分を自分たらしめる根本的な部分の変化とは異なる。

 

自分に似合っているかどうか、を考えず、手っ取り早くイメチェンしたい!周りも染めてるし!といったテンションで髪を染めた人なら、どうしてもその人自身の魅力を引き出せないような、没個性的な髪型になってしまうことが多々あるだろうし、それらしき人を春のキャンパスで何人も見かけるものだ。逆に言ってしまえば、自分に似合う髪色に染めたなら、それは自分の新たな魅力の開花であり、本当の意味での自分自身の変化と呼べるもので間違いない。そして、外見に関してはいくらでも試行錯誤を重ねられるため、まだ良い。

 

特に問題なのは高校の時とは全く違うようなキャラへの方向転換を試みるケースだ。

実際、入学を機にキャラのマイナーチェンジ、くらいが現実的であり、成功率も高いのだが、やはり新しい環境で生活するなら今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろう、なんて思うのだろう、大幅なキャラチェンジを目論む人が一定数いる(私もその内の一人である)。これは、関係が浅いうちならまだいいが、そこから話す機会が多くなってきたり一緒に行動することが多くなって仲が深まりはじめる頃には大抵ボロがではじめる。何故か?答えは簡単。例えば十数年間人見知りとして生きてきた人間が、たった数週間、一ヶ月ほどで誰とでも隔てなく話せる社交的な人物になりうるだろうか?全くないとは言い切れないが、限りなく難しいに違いない。それが出来る人は元から社交的な人物としてのポテンシャルを持っており、大学入学を待たずに皆と仲良くする事ができる場合がほとんどだと思うのだ。

 

長年自分に染み付いていた性格はそう簡単に変えられない。それが自分の悪い部分だったとしても、それ含めて自分を自分たらしめている要素なのだから、簡単に変えられるわけがないのだ。基本的に今の自分というのは、一番自分が居心地よく、平穏に生活できるような思考、行動、性格から成り立っている。それをリスクを冒してわざわざ変えようとするのは生半可な覚悟では難しいものである。仮に変えようと行動に移せた場合でも、その新しいキャラが今までの自分とは相反するものだったら、自分自身が一番違和感を抱く。その違和感を咀嚼し、吸収できない場合はそれを自分の中から排除しようとする(つまり元の性格であり続けようとする)。まるでアレルギーに対する免疫反応のようだ。

 

とにもかくにも、上記の理由から、短期間で無謀なキャラチェンジを試みる場合、多くの場合は中途半端なキャラになるか、結局変われないかの2パターンの結末で落ち着いてしまうのだ。しかも厄介な事に、入学初期においては、相手がどんな人、どんな性格なのかを知る事は、今後の人間関係を構築する上では欠かせない行為になってくるため、大抵の人は何度か関わった人のキャラをある程度把握しようと努力するのだ。そのため、接し始めからしばらく経った頃に、キャラチェンジの失敗を理由に(相手は、キャラチェンジの事実すら知らないことを念頭に置かねばならない)、キャラチェンジのキャラをさらにチェンジさせる、もしくは大学入学前の本来の自分に戻る(これも相手からすればキャラチェンジと捉えられる)、といったことをすると、どれが本当のキャラなのか?いまいちどういう人なのか掴みにくい、といった印象を相手に与える可能性があり、円滑な人間関係の構築の障害になるかもしれない。

これらのリスクを踏まえたうえで、本当に自分はキャラチェンジをするのか否か、といったことを検討するのが安全であり自分自身のためでもあるのだ。(もしこれを読んでいる人のなかに、大学入学じゃなくとも、何かしらの転機に乗じて「自分改革」をしようと考えている人がいるなら、このことを一度自分に当てはめて考えて欲しいと切に思う。)

 

 

これらの現実があることに、当時の自分はそこまで考えが及ばなかったのだ。

いや、及ぶわけがなかった。繰り返すようだが、髪をセミロングにしただけで何もかもうまくいくと思い込むくらいには脳内お花畑状態だったのだ、その私が冷静に物事を考えられるわけがないのだ。

私が大学デビューしようとした内容には、先ほどから挙げている「髪の毛を伸ばし少しでも女の子らしくなる(男受けのいい外見を目指す)」に加え、「コミュ障を克服し、男女関わらず多くの友人を作る(人見知りの克服)」といったものがあった。今の私を知っている読者であれば、この時点で多くを察しただろう。

 

入学してすぐの頃は、女子大生なんだから、とそれまでまともにやったことのなかったメイクを毎日欠かさずしていたし、初対面の人相手でもなんとか接しようとした。自分から人と接する機会を増やそうとしたこと自体が冒険に近いものだった。

高校の頃みたいな、地味で誰からも興味を持たれないような人物から変わり、色んな人と仲良く関わり、勉強も恋愛もバイトも充実した生活を送るための「自分改革」期間であった入学当初というのは、期待と楽しみの気持ちは確かにあった。けれど、それ以上に新しい環境に慣れようとすることと、自分を変えるために慣れないことをし続けるダブルの疲れが想像以上のものであり、それは着実に私の中に蓄積していった。

 

入学から1ヶ月も経つ頃には、もう、夢から醒めていた。

 

冷静に考えて、私が高校生の時に絶望的にモテなかったのは、髪の長さの問題ではなく、極度に緊張して異性とまともに話さない、話そうとしなかった点にあったではないか。なぜその決定的な理由を見落として、受験生だった頃の私は髪型を変えればきっと彼氏ができると思い込んでしまったのか?受験勉強の疲れで判断力が鈍ったのか、はたまた無意味とわかっていながらも、自分がモテない理由をどこかに転嫁したかったのかもしれない。

しかも、人見知りを変えようと入学してから自分なりに努力していく中で、広く浅くの人間関係が一体自分にとって何の良いことがあるのか?とふと疑問が浮かんだのだ。人間関係は損得勘定で築くものではないと理解しているが、それでも、仲良くなりたい、もっと相手のことを知りたいと思えない人と無理に関係を維持していく労力が無駄だと感じたのだ。今後仲良くなるのかわからない人のために精神削ってまで接する必要はあるのか?時間をかけてでも、自分と気の合いそうな人を見つけ、その人と深く仲良く接していけば十分ではないか?という考えに行き着いたのだ。

 

そう気付いた時、私は私の好きなように生きるのが一番である、と痛感した。

世の中の風潮、大多数の考え、はそれとして存在しているが、それらが一体私にどう影響を与えようというのか。量産型ファッションのように、一見したらどれも同じに見えるような没個性の枠組みの中になぜ自ら進んで入る必要があるのか。「世の普通」「普通の大学生」の枠に入って自分を殺すくらいなら、枠の外で、自由気ままにやる方がよっぽど楽しいに決まっている。

そう、自分がこうありたい、こうしたい、という明確な考えがあるならば、それを貫き通すべきなのだ。外野の声に耳を傾ける必要はない。そして、世の中に大多数がいるならば、少数派も必ず存在しているのだ。自分を理解してくれる少数派と出会い、その人たちと仲良くすることができれば、これ以上望むことがあろうか。大学に入学してからもうすぐ3年経つが、私は幸いにも自分を自分として認めてくれる友人に出会えたため、それだけでこの大学に進学して良かったと感じている。(相手が自分のことをどう思っているのか、を考え始めるとキリがないため相手も自分と同様に思ってくれてることを信じるのみだ。)

 

このことに気づいた私は、せっかく伸ばしていた髪を切り、ショートに戻した。

そこから今日まで、ずっとショートヘアーである。

今、私がショートヘアーにしている理由は、「ショートが好き」だからだ。

ショートは男受け悪い、と腐る程聞いてきた。彼氏が欲しいな、とよく思う私にとって、男受けの悪い髪型をすることは自分にとってマイナスであるはずなのだ。

でも、ショートの髪型が一番自分に似合っていると思っているし、ショートの女性を見ると、かっこいいな、と思うのだ。かわいい女の子、よりもかっこいい女の人、に憧れる私は、自分もショートにして、かっこいい女の人に形だけでも近づきたい、と思っている。そのためなら男受けなんて二の次である。むしろ、ショートが好きじゃない男はこっちから願い下げだわ!という勢いである(私に願い下げされてもダメージを負う人がいないのも分かってて書いてる)。

髪の毛を黒髪のままにしているのは、黒髪ショートがかっこいいと思っているからだ。

 

黒髪ショートというのは、周囲の流行り、一般的な受けの良さを無視し、自分が自分の好きなように生活をしていることの表れなのだ。

 

茶髪のパーマのかかったかわいい女の子が好きな大多数の男の好みになるのではなく、自分の好きなように生活した結果、ショートでかっこいい女の人が好きな少数の男の好みになっていた、というのを目指したいし、そういう男の人と付き合えたりできれば、正直私の大学生活はもう満点である。

 

私の黒髪ショートにはこんな背景がありましたとさ。

横顔

突然だが、私は人と目を合わせるのがものすごく苦手だ。いや、苦手というのもまた少し違うかもしれない。意識して相手の目を見よう、と思わない限り会話中だろうと何だろうと、相手ではなくどこかぼんやり違うところを見てしまう。もっとも、ちゃんと相手の話は聞いてるが、相手の立場からすればちゃんと自分の話を聞いてるのか不安になるだろうな、というごく当たり前のことにようやく最近気付いたのだが。今は自分で気付いた時にはなるべく意識して相手の目を見るようにしているので温かく見守って欲しい。

 

さて、今日私が少し話したいのは、相手の目を見るのが苦手な私だからこそ好きになった、横顔について。

私の言う「横顔が好き」というのは、世の女子高生なんかが「好きな男の子の体の部位」に「血管が少し浮き出た腕」とか答えちゃうような、その感覚と近い。

どうして横顔が好きかというと、相手の視界に入ることなく、相手を眺めることができるからである。特にその相手が好きな人であれば尚更だ。

 

「視界に入らないのがいいなら後ろ姿もいいのでは?」

ダメです。大事なことなので2回言います。ダメです!!

確かに後ろ姿なら確実に相手の視界に入ることはないです。けれど、それだと相手の表情、視線の先にあるものが全くわからないじゃないですか。それだと意味がないんです。

そうなんです。純粋に横顔のフェイスラインを見るのが好き、っていう理由もあるけど、それ以上に私が横顔を支持している理由は、「相手の表情」「相手の視線の先」を「相手の視界に入ることなく」そっと見ることができるからなんです。

 

目線を合わせるのが苦手な私は小さい頃からかなりの恥ずかしがり屋で、今もそうだ。恥ずかしがり屋であることを悟られるのも恥ずかしいから、塩対応したり顔に出さないようにしたり素直な反応ができないとか日常茶飯事なんですね実は。本当にコミュニケーションを取るのが不器用だな、と自分でもつくづく思うわけだけども。

とまぁ、こんな感じで恥ずかしがり屋な私は人と真正面で対面すると、どうしても緊張しちゃって、特に対面してる相手が好きな人だと、当然相手も私のことを真正面から見てることになるでしょ?もうそんな大それたこと、私が平然としていられるわけがないんです。自分にそのつもりがなくとも、対面している間は相手の視界を自分が独占しているんです。視覚で捉えられた挙動がダイレクトに相手に伝わる、というのは嬉しいことでもあるし少し怖いことでもあるんです。自分は自分の表情の微々たる変化を確認することはできないけど、相手にはそれが全て分かってしまう。自分ですら気付いていないような、ふと漏れ出してしまった本当の感情だったりが、真正面にいる相手にだけは伝わってしまうこと。自分の手を離れてしまった感情ほど扱うことが難しいんです。どうしてもまだ隠しておきたい感情ほど、自分の意識下から流れて、ふと顔を覗かせようとする。それが分かっているんです。

 

だから、私はずるいから、一方的に、静かに覗くように、横顔を眺めるんです。相手がこちらを見ていないから、自分の表情や振る舞いに気を回す必要がないんです。小さな瞬き、じっと一点を見るような強い眼差しだったり、ふわふわとどことも定まらず、気まぐれに視線を変えてる様子だったり、眠そうに頬杖をついていたり。どことなく疲れているような表情だったり、気の抜けてるような表情、何かいいことがあったんだろうな、って分かるような明るい表情。一つ一つ、相手の世界を邪魔しないように見るんです。そして、相手がこの瞬間、何を考えているんだろうな、と考えを巡らせることがたまらなく好きです。

 

あなたの視界の中に私が入ってない時、どんな風にこの世界を生きているのか。それを垣間見れるから横顔が好きです。

 

ただ、いつまでも私が横顔ばかり眺めるのは不公平だと思うから。最初は横に並んで歩いて、会話の途切れたふとした瞬間に私があなたの横顔をちらり、と見ることの繰り返しから、時間をかけていき、真正面からあなたの世界の中に入りこんでみたい。その時には、私の感情も表情も、恥ずかしがらず全て見せられるようになって、あなたも私の世界の中に入り込んできてほしい。

 

そんなことを思う冬の夜です。

変容する自分 と 取り残される心

初更新。思い立って開設。

ブログ自体は中学生の時に頻繁に更新していたから、テーマは違えどこうしてまたまとまった文章を好きなだけつらつらと書いて投稿する場ができたのは懐かしい気持ち。

高校、大学では専らツイッターに耽ってしまい、文章の推敲にさほど気を使わなくて済む短文投稿に慣れてしまい、読む相手を意識した文章を書く機会が減ってしまったことに少し危機感を覚えたのがこのブログを開設した理由の一つだったりします。

 

このブログでは、この時期の自分だからこそ悩むようなこと、うまく表現できないような「なにか」を、他の人に共有できるように、もしくは言葉を用いて一つの表現を与えることで自分自身を納得させるために、言語として、文章として「なにか」を昇華しようと試行錯誤する場になるかと思います。内容自体もありきたりなものになるかと思うので目新しいものを求める人には向かないかも。気が向いたり暇な時に覗いてくれれば嬉しいです。

 

さて、そろそろ本題に。

初回の更新は「変容する自分 と 取り残される心」について。

いわゆる過渡期ってやつです。私はまさに過渡期真っ只中です。皆さんはどうでしょうか。

私が高校生の時、大学受験において進路を決める時、志望校を決める時、進学先を決める時、どのタイミングでも「将来のことなんてわからないのに、けれどここで自分が成す選択がきっと将来の自分を行き先を決めるんだろうなぁ、こわいな」といった不安を漠然と感じていたことがあったけど、これも今思うと過渡期の中にいるからこそ生まれるものだと思うんですよ。

念のためネットで過渡期の意味を検索すると、「移りかわりの途中の時期。物事の移りかわりの最中で、まだ安定していない時期」だそう。

となると自分を取り巻く環境の移りかわり、自分自身の移りかわりの最中が過渡期なんだから、高校生の時に感じていた不安は、「ひどく不明瞭だが、今後の自分の人生を大きく左右してしまう予感を感じさせる過渡期」を上手に舵切る自信がなかったことから生じたもので間違いないし、大学生の私が今感じている不整合感もまた過渡期の荒波に揉まれている証拠でもあると思うんですね〜。

 

Q.大学生になった今の私が感じている過渡期とは?

ずばり、答えはこの記事のタイトル。

A.変容する自分 と 取り残される心

まさにこれなんですよ!

なんとなく理解できるかもしれないけれど、一つずつ説明してみます。

 

「変容する自分」=子供から「大人」へと変わる自分。

高校を卒業して大学に入学した途端、人間関係も行動範囲も今までとは比べ物にならないくらい一気に開け広がり、自由と責任が与えられました。

大学生はいわば「大人」として社会に出るための予行練習期間だと思うんです。(一応断っておくとなにも大学生にならないとこの予行練習期間がないわけではなく、高校生の間に例えばバイトの経験を積極的に積むことを通して「大人」になる予行練習をして社会に出る人だって当然いる。が、今回は大学生に焦点を当てて話を進める。)

法律で定められた成人年齢を迎えれば「大人」に自動的になれるものだと小さい頃は思ってた。そうでなくとも、大学4年間はモラトリアムと呼ばれているくらいなのだから、焦って「大人」になる必要はない、ゆっくり少しずつ「大人」になろう、と大学に入った頃はあまり重く受け止めず、気楽に考えていたけどね。でも、実際20歳を迎えてから早2ヶ月以上経った今、「自分は『大人』になれていますか?」なんて聞かれたら即座に首を横に振る。

予行練習期間である大学生活の中で、バイトで社会常識を身につけ、サークルで上下関係の中での人付き合いを学び、様々な出会いを通して好きな人が出来て、恋愛に現を抜かしたり。もちろん自分の興味関心のある勉学に励むことも、全部「大人」になるために大事な要素だということには多くの人が気づいていると思うのです。けれど。

 

何を以って「大人」になれたと言えるのか。私はその答えが分からない。正直自分が「大人」になる想像が全くつかないのだ。

 

けれど、だからといっていつまでも自分が「大人」にならず、子供のままでいることは許されるのか?

答えは「ノー」。社会は、私たちに「大人」になることを常に要求してきているからだ。ちらっと前述したように、20歳が法律上での成人年齢であるという事実はもちろん、進学に伴って一人暮らしを始める時、お年玉がもらえなくなったりいつの間にかクリスマスにサンタが来なくなった時、成人を迎える頃に家に届く国民年金の書類、結婚や出産が遠い話のように思えなくなる瞬間、就活。それらの一つ一つが確実に私たちの子供からの脱却を着々と押し進めている。つまり、自分が「大人」がなんたるかを理解しているか否かが重要なのではなく、所定の時期までに必ず「大人」という枠組みの中に入ることが私たちは求められているのだ。このあたりが「変容する自分」の根幹の部分となっている。そして、「取り残される心」にも関わってくる。

 

「取り残される心」=「大人」へと変容せざるを得ない状況に対する自分の戸惑いの気持ち・周囲の人から置いていかれるような気持ち。

これは絶ッッッッッッッ対、誰しもが一度は感じているはず、というか現在進行形で感じている人がほとんどだと思うのですが、まさしく。

その心情がこの「取り残される心」。

自分は社会から「大人」になることを要請されている環境の中で生きているけれど、そんな簡単に「大人」にはなれない。そもそも「大人」になるために手探り状態の日々を過ごしていてはいるけれど、自分なりの「大人」の答えを見つけ出し、自分がそんな「大人」になることが出来る、なんて確証はどこにもない。私はそんな不安を飼い慣らしながら生活している。すると、精神が子供な私は幾度も

 

「社会が『大人』になれって言ってようが、そんなん知ったこっちゃない。私は今が楽しんだからそれでいい、先のことなんて考えたくない。まだまだ子供でいたい……」

 

なーんて、こんなことをぼんやりと、しかし強く心から思う。このような「大人」になることへの放棄、逃避なんかは、変容しないといけない状況におかれつつも自分の気持ちが取り残されていることの分かりやすい表れだ。

 

また、大学に行くと周囲には自分と全く同じ境遇に置かれた友人がいる。そこで、互いが互いをまだ「大人」になりきれていない、子供のままでいることを望んでいるような段階に踏みとどまっているんだろうなと認識できるうちは、「まだ仲間がいたんだ」、という安堵感を覚えるに留まるだろう。

しかし、もし友人が自分より先に明確な将来の進路を見つけていたとしたら?進路の実現のためにインターンや何か熱中出来る活動に参加していたら?進路だけじゃない、友人の方がバイトの時間を有意義なものとして使えていたり、恋愛も順調だったり、順調じゃなかったとしてもそれを経験の一つとして人間的な深みを得られていた時、どう感じるだろうか?もしかしたらそれはいわゆる「隣の芝生は青い」ものかもしれない。けれど、同じ位置にいると思っていた友人が自分よりも先に進んだ位置にいるような、置いていかれたような気持ちを抱いてしまったら。その瞬間、八つ当たりとまではいかなくとも、友人を素直に応援する気持ちになれないことだってきっとあるはずだ。少なくとも私は大学に入ってから何度も何度も、この気持ちを味わったし、友人を応援できない自分の心の余裕のなさにも気付くことでさらに自己嫌悪した。

このように、友人が着々と「大人」への一歩を踏み出せているのに、私だけ何も変わってない……といった焦りを感じる心。これも「取り残される心」であるのだ。

 

 

「大人」になることを求めてくる社会。

「大人」とは一体なんなのか?明確な答えは明示されていない。

けれど、必死に「大人」の枠組みに入ろうとする自分。

そんな急激な「大人」への変化の中で追いつかない心、精神。

 

これが今の私の過渡期の全容だ。

簡潔にまとめてしまえば、求められている肩書き(「大人」)と中身(心)が一致していないことへの違和感、不安、といったところだろう。

ここまで読んでくれた人は「まあ、それは当然だよな」って感じの結論で肩透かしを食らったかもしれないけど、でも冒頭に目新しいことは書かないって書いてるから問題ないはず。(?)

自分の置かれた現状をこうやって書き留めておくことで整理できることだってあるからこの初回の更新、テーマは無駄じゃなかったと思いたい……。

 

来年から大学三年生ってなかなか信じがたいけど、時期が時期だから今まで以上に大学卒業後の進路を真面目に考えないといけないし、インターンも春休みから本格的に始める中で、この過渡期の変容する自分と取り残される心問題は何回も自分の中で浮上してきそうだなぁ。ただ、私は進路とかに関しては正直そこまで心配はしてないんですよ。いや、心配はしているけれど、全く目処が立っていないわけでもないし、自分の好きなこととかやってみたいことはある程度わかってて、それを実践できる機会を用意できてるからね。

となると、なんとなく薄々気づいている方もいるかもしれませんが、その通り。現時点で特に自分が一番「大人」になる上で一番足りていない経験、要素が「恋愛」だと思っているので、またいつかの記事で長々と恋愛の話でも書こうかと思います。

 

気づいたら日付が変わってたし、ゼミを平穏に離脱するための課題レポート終わらせてないし、この記事の文字数がその課題レポートの指定字数を優に超えてしまってたので寝ます。おやすみなさい。