「友情と恋愛の線引き」とは何か、モテない女子大生が真剣に考えてみた

 友人としてはいいけど、恋人としては考えにくい。いわゆる恋愛対象外という枠だ。まさに私はその典型例である。冒頭から自虐で申し訳ないが、これは20年と数ヶ月生きてきた中で何度も気付かされてきた事実である。友達として仲良くする分には問題ないが、どうしても恋愛となると、相手が私を「恋愛対象」として意識している事が少ないように感じる。実際、私が恋愛として好きだな、と思っていた相手から、私のことをそういう風に見たことが全くなかった、と言われたことすらある。サラッと書いているが、結構ショックが大きかった出来事だ。

 

  そんなモテとは無縁である私が、高校生の時から友達と何度も議論を重ねてきたあることについて今回話そうと思う。それは、「友情と恋愛の線引き」だ。早速次の項目から本題に入っていくことにする。

 

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▶︎私も恋愛対象として見られたいぞオラオラ、という気持ちで友情と恋愛について真剣に考えてみました。

 

「男女の友情」は存在するのか?

 本題に入る前に素朴な疑問を投げてみる。古来から何度も議論されてきているだろうこの問いは、人によって出される答えが異なってくるに違いない。なぜならば、これはどっちが正解でどっちが不正解、という問いではなく、価値観によってその人なりの答えが変わってくる問いだからだ。

  ちなみに、男女の友情はあり得る、と私は思っている。もう少し言ってしまうと、男女の友情は成り立たない、と感じたことは一度もないし、そもそも成り立たない理由が思い浮かばないのだ。実際に、私にとっての良い友人は誰ですか?と問いかけられれば、同性の友達はもちろん、男友達のことも思い浮かぶ。性別に関わらず、良い友人になることは可能だと思っている。でも、これはあくまで私の考えで、きっとこの記事を読んでいる人の中には男女の友情なんて結局のところあり得ない、と思う人もいるだろう。 

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▶︎フレンズとドッタンバッタン大騒ぎするの、たーのしー!

 

そもそも「友情」と「恋愛」の違いって?

 では、この考えの違いはどこから生まれてくるのか。先述したように、この問いへの答えは人それぞれの価値観の違いから生まれてくるに違いない。その中で最も大きな影響を及ぼす部分が「友情と恋愛の線引き」だ。少なくとも女性の読者であれば一度は経験したことがあると思うのだが、「良い人」と「好きな人」の違いが一体何であるのか分からなくなった事はないだろうか?あるいは、恋人に求める条件を聞かれた時に、「一緒にいて楽しい人」と答えることは結構多いように感じるが、この「一緒にいて楽しい」というのは友達でも充分ではないだろうか、と思った事はないだろうか。そうして、上手く説明はできないが、確かに友達は良い人だし一緒にいて楽しい、けど、恋人にするにはまたちょっと違う、という結論に達することを何度も繰り返したこともあるかもしれない。

  このように、はっきりとは掴めないが、友情と恋愛を分けるなんらかの線引きが存在していることに気付く場面に、何度も遭遇したことがあるはずだ。

  この線引きの根底には何があるのだろうか。友情と恋愛の間にある大きな違いは、当たり前だが「恋愛的な好意の有無」だ。書くまでもない、と思うかもしれないが、結局のところこの「恋愛的な好意」が一番わかりやすい要素なのだ。

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▶︎誰が恋愛として好いてくれているのか赤い糸的な感じで目に見えたら便利なのに……と何度思ったことか

「友情」の好意と「恋愛」の好意は全くの別物なのか?

 男女の友情が成立しない、という考えの人からよく聞かれる声には「友人と思っていても、どちらか一方が恋愛感情を抱いてしまった時点で、もう一方の信頼を裏切ることになるから友人関係は崩壊する。とても脆い関係である」といった旨のものが多いように感じる。

  だが、少し矛盾するようなことを言ってしまうが、この恋愛的な好意と友情としての好意が共存することはあり得ないのだろうか?と私は尋ねてみたいのだ。恋愛的な好意が生まれる過程にはおそらくいろんなパターンがある。一目惚れ、相手からの好意を受けて自分も相手を好きになる、友人として仲良くしているうちに好きになる。ざっとあげるだけでもこの3パターンが浮かんでくる。他にも色んなパターンがあるだろう。このように、好きになる過程は多種多様であるが、どのパターンであっても、ある質問に対する答えはおそらく全員同じものになるのではないか?と私は考えている。そのある質問とはこれだ。

 

「恋愛的な意味で好きなその相手は、友達として仲良くしたいと思える人か?」

 

 顔が非常に好みなだけで性格に関しては不問・悪くても目をつぶれる、というタイプの人は例外だが、そうでない場合はおそらく「友達としても仲良くしたいと思える」と答えるはずだ。

 つまり、友情としての好意と恋愛的な好意というのは全く別物ではないと言える。もう少し正確に言うと、友情としての好意を満たす時、それは恋愛的な好意の土台もまた満たしていると言えるのではないか。だから、仮にどちらか片方が相手に対して恋愛的な好意を抱いたとして、それが相手にとって完全なる裏切りにあたるかどうかを考えると、私はそうではないのではないと思うのだ。言ってしまえば今まで相手に抱いていた友情としての好意と恋愛的な好意の根底はなんら一切変わっていない。恋愛的な好意を抱いた=友人関係の崩壊、ではない。友情としての好意が消失したわけではないからだ。むしろ、友情としての好意に+αしたものが恋愛的な好意であるのだから、友情の延長線上に位置したものであるのも言える。

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 ▶︎友達だと思ってたあいつのことをいつの間にか好きになってた、っていう展開、王道だけど好きです

 

 「友情」に何が加われば「恋愛」としての好意へ変貌するのか

 友情、恋愛の各々において、ある一定のラインまでは同じ判断材料を元に好意を相手に抱いてると言えることが上記から導き出された。極端な言い方をすれば、友情と恋愛は99%同じ性質で、残り1%の違いで2つを違うものへ区別している。その1%の違いが恋愛的な好意であり、線引きであり、人それぞれの持つ価値観の相違だ。

 その1%はずばり、「自分が優れている・魅力的だと感じられる相手の魅力」だ。肝心の結論が漠然とした表現となってしまった。どういうことなのか説明してみよう。

 

 恋愛とは極めて本能的なものだとされている。恋愛はロマンティックな詩的表現で描かれがちなものだが、突き詰めていけば種の存続のための闘争である。それは子孫を残すという、直接的な話に限ったものではない。いかにリスクの少ない平穏な生活を送っていけるか・精神の安寧を保てるかといった、質的な意味も含まれていると考えている。これだけだとあまりピンとこないかもしれないので具体例を挙げてみる。

 

 例えば、自分に自信を持てない人が、他者(特に恋愛対象となる人物)から好意を抱かれることで、自己肯定感が高まると考えられる。今までコンプレックスに思っていたことでも、「容認してくれる人がいる・その点含めて好きになってくれた」と前向きに考えられるようになるのだ。そうなると自分に自信を持てるようになり、あらゆる面において意欲が湧く……ということは十分ありえるだろう。自分に自信のない人に限らず、程度に差はあれどの人にも同様のことがいえる。人は自分という人格・存在を認め、そして求めてくれる人物の存在によって精神面における充足を得られる。これが質的な種の存続(自分という個の平穏な存続)の具体例だ。

 

 ここまでの説明なら、「友達として仲良くしていても相手の自己肯定感を高めることはできるんじゃないの?」と思う人がいるかもしれない。誤解を恐れずはっきりと言うと、友達だけでは不十分なのだ。

 正確に言うと、友達によって満たされる自己肯定感と恋人によって満たされる自己肯定感は、別の次元のものだと思うのだ。友達によって満たされる自己肯定感はなくてはならないもの・低次元のものになり、それが満たされるとあると満足するもの・高次元の自己肯定感の充足を求めるようになる。これはマズロー欲求階層説と同じ原理だと考える。

 嫌な言い方になってしまうが、高次元の自己肯定感を満たそうとするならば、「自分にとって特別な人・魅力的な人」から自分を認めてもらえなければ不十分なのだ。

 何もこれは「友人は特別・魅力的ではない」と言いたいわけではない。友人になっている時点でその相手に対してシンパシーやら共通点やら、何か人として接していきたいと思える点があるといえるのだから当然魅力があることを認めているし、優れている点だって必ずある。

 

 しかし、ここでいう「自分にとって特別な人・魅力的な人」というのは「一般的に良しとされている能力・人格・外見をもつ人物」ではない。「強く自分が憧れ・渇望している能力・人柄・外見をもつ人物」である。言うまでもないがこれは人によって憧れや求めている要素が異なるため、何を以って相手を魅力的であると評価するかが変わってくる。要するに、恋愛対象になりうる人は、一般的なものさしではなく主観的なものさしで測った時に強く秀でていると感じられる魅力があるはずなのだ。そして、その魅力が複数あればあるほど好意の強さも大きくなる。

 なぜ主観的に「魅力的」と感じた要素の方が強く作用するかというと、主観は価値観によって支えられているものだからである。価値観にそぐわない魅力は、その人にとっては「単なる特性」に過ぎない。逆も然りだ。多くの人からはなんとも思われないその人の特性が、ある人にとってはものすごく「魅力的」に見えることだってある。

 私の場合、「自分よりもスマートで人との接し方が上手い人」がすごく魅力的に見える。自分より効率良く物事をこなせる人や、自分にはない社交性を持つ人は魅力的な人物に映るのだ。そして、おそらく「社交的な人」というのは一般的に見ても好まれる特性だろう。しかし、例えば他の人が同じ人物を見たときに「社交性」を「八方美人」と評価し、それを魅力と捉えないケースがあるかもしれない。もしくは、自分も社交的である人の場合、「社交的」であることに対して強い魅力や憧れを感じることがなく、特段評価しないことも考えられる。さらに、「社交性」があることは評価するが、それだけ人との繋がりが多いと浮気の機会が多いのかも……と、「魅力的だからこそマイナスに作用する」とみなす人だっている。(レアケースかもしれないが)。

 また、「外見」という要素に関しては、友情よりも恋愛において求めることの方が圧倒的に多い。もちろん外見の好みも人によって様々だ。具体的な好みがなかったとしても、「清潔感があれば良い」「それなりに服装に気を使っていれば良い」のようなラインは必ず存在し、人によって求めるレベルが大きく異なる。なぜなら、先ほどまで述べてきた「能力・人格」と比べ、「外見」は直感による判断の部分が大きいからだ。そのため、「魅力的」に感じるかどうかの判定が「能力・人格」よりも個人に大きく左右される要素だと言える。

 そのため、一般的・多くの人からの評価よりも、あくまで自分自身の相手に対する評価が一番重要になるというのが分かったのではないか。

 

 露骨な表現をあえてすれば、人は「強く自分が憧れ・渇望している能力・人柄・外見」を持つ人のことを、「自分よりも価値の高い人間」「自分にとって最も魅力的な人物」であると主観的に判断している。そして、単純に考えて、自分よりも優れている・もしくは強く魅力を感じている人物から自分を認めてもらった方が、自分の価値を正しく評価された、という気持ちや満足感、嬉しさが増す。この時にはじめて高次元の自己肯定感が満たされるのだ。

 つまり、恋愛では無意識のうちに質的な種の存続というのを前提に据えており、それをできる限り高次元なものとして達成できそうな人物に対して恋愛的な好意を抱くようになっている、と考えるのは全く不自然ではない。乱暴な言い方をすれば「自己肯定感を満たすために恋人を作る」部分が誰しも少なからずあり、そこが友情と恋愛のそれぞれにおいて求めることの最大の違いとも言える。恋愛では自己肯定感の充足という面を無視することはできず、またそれは批判することではないと思う。

 

 とはいえ改めて強調したいのは、自己肯定感の充足だけが恋愛の目的ではないということだ。純粋に相手ともっと接したい・何気ない毎日を共にしたいから「恋人」という枠に入り、一緒にいる正当な理由が欲しい、という部分が恋愛の基本的かつ大部分を占めていると考えている。自己肯定感がどうとか相手への評価がどうとかそういう小難しい話ばかりで恋愛が成立しているわけではないというのを付け加えておく。

 

 以上が、相手に対して抱く好意が「友情」なのか「恋愛」なのかという線引きは「自分が優れている・魅力的だと感じられる相手の魅力」によって行われているという私なりの結論の説明となる。

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▶︎「好きな人に好かれるのが一番幸せ」というのはおそらくそういうことだと思います。

 

「恋愛」と「憧れ(推し)」の違い

 「でも、自分にとって強い魅力を持っていることがイコールで恋愛としての好意に繋がるわけではないのでは?恋愛ではなく”憧れの人物”になることだってあるじゃないか。それに、友達に対しても強い魅力を感じることだってある」という反論が聞こえてきそうだ。確かに、それはその通りだと思う。憧れの存在、の他にも「推し」といった表現も同様の存在を指していると思う。この場合は、「能力・人格・外見」の要素を「能力・人格」と「外見」の二つに分けてみる必要がある。分け方もいくつか考えられるが今回は一番わかりやすい方法で分ける。

 

 一概には言えないが、「能力・人格(内的要素)」と「外見(外的要素)」の両者が「一定の基準」を超えて初めて恋愛としての好意が生まれると考えている。もちろん、どちらか片方が極端に飛び抜けており、片方のマイナス部分を補えるほどであれば、その場合も恋愛としての好意が生まれることもある。しかし、冒頭でも記事内でも少し話したような「友達としては良いけど恋愛としてはちょっと違う」となるときは高確率でどちらかの要素が「一定の基準」を超えていないのだ。

 いうまでもないが、人によって内的要素と外的要素のどちらを重視しているかは異なる。どちらかというと内的要素を重視している人であれば内的要素の基準が高めになるし、外的要素を重視している人であればそちらの基準が高くなる。どちらの基準も低い・高いといったことも十分考えられる。

 

 それを踏まえて「憧れの人物(推し)」止まりになる理由を考えると

①単純に内的・外的要素のいずれかが「一定の基準」を超えていない

②その人以上に魅力的だと感じている人がいる(そのことを本人が自覚していない。恋愛的な好意はその時自分が最も魅力的だと感じている人に対して抱きやすい)

③そもそも「友達」としての土台が弱い(先述の通り、友達としての親密さ・好意+αが恋愛であるケースが多いため)

④その相手と恋愛関係になるのが非現実的だと考えている(実現可能性のある相手じゃないと、質的種の存続の面において合理的でない選択となる。)

 

という4つのパターンが考えられる。そのため、ある面において強い魅力を感じていてもそれがイコールで恋愛にならないことも普通に考えられると言える。

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▶︎クラスの憧れの存在ってやっぱり自分とは別世界というか、親しさよりも距離がありますよね、ソレです

 

 

 結論を述べよう。友情と恋愛の線引きとは何か。

相手が自分にとって”超魅力的”であり、なおかつその人から好かれることによって満たされたいと思えるかどうかが線引き。

 きっとこういうことである。ものすごく当たり前のことだが、やはり当たり前の考えが当たり前として定着している裏にはそれなりに納得のいく理由が存在しているのだ。それを自分なりに文章にしてみたが、これを読んだあなたはどう考えただろうか。

 長々と書いてきたが、結局のところ単純に一緒にいて楽しければそれだけで友人という枠に入れるが、恋人枠に入るにはそれだけじゃ飽き足らない、ということが言いたかったのだ。文章中で友情と恋愛の大きな違いに「自己肯定感を満たしてくれるか否か」ということを指摘したが、そんなロマンもクソもない結論じゃ納得できない!という人がいたらこの場を借りてお詫び申し上げようと思う。

 

 おまけ程度に触れておくと、この「友情と恋愛の線引き」であれば、本題に入る前に少し話した「男女の友情」について私が「男女の友情は成立する」といった理由もなんとなくわかってくれるのではないだろうか。相手が異性だから、という理由だけですぐ恋愛に直結する、と考えるのは短絡的だと感じるからだ。恋愛対象の性別に当てはまっているというだけで誰彼構わず好きになるわけではない。そもそも、私は友情が成立しない男女間に恋愛が成立するわけないだろ、と思うのだ。あくまで個人の考えだが。

 

 そして、ここまでの説明を踏まえると、冒頭の疑問に対し、自分で答えを出すこともできる。そう、なぜ私は友達どまりで恋愛対象として見られないのか?

好きな人にとっての魅力的な人物が私ではない。

 なんと単純明快な答え。しかし、これが真理であり一番納得のいく答えであると私は自信を持って言える。同様の悩みを持っているあなたにもこの答えが響くのではないだろうか。好きな人にとっての魅力的な人物になるか、それとも今のあなたを魅力的だと感じてくれる人が現れるのを待つか。それはあなた次第だ。

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▶︎いつまでも 喪女と思うな 見ておけよ/黒木、心の俳句

 

 この記事ではかなり一面的な部分から検討したため、「いや、こういう場合はその考えは当てはまらないんじゃないか」とか、「そういう考えならこういうパターンだってあり得る」といった考えが出てきてもおかしくない。そもそも恋愛と友情の概念を突き詰めようとすること自体が非常に難しいことであるため、かなり強引に書き進めた部分もある。いろんな人の意見が聞いてみたいところだ。

 なにはともあれ、「あぁ、喪女をこじらせた女子大生はこういう考えをするんだな」といった程度に、なんらかの共感だったり同情(?)だったり、少しでもこれを読んだあなたに何かを残せれば幸いだ。

 

 また時間のあるときに記事を更新しようと思います。