ぽぷ雑記

めちゃくちゃ不定期に更新する。近況報告がメイン

大学デビューの結論としての黒髪ショート

黒木といえば黒髪ショートカットだ(知らなかった人は今覚えておこう)。

黒髪ショートカットというのはおしゃれに無頓着な自分がこだわっている唯一の部分でもある。

今日はそのこだわりの話を少し。

 

中学、高校の時も一時期はセミロングだったが、基本的にショートだった。

当時ショートにしていた理由は単純、「楽だから」である。

ロングヘアーだと髪を乾かすのも大変、不器用だから上手に自分の髪を結べないし、結べてもひどく不恰好な出来になる。だから、切ったら切りっぱなしのショートが面倒くさがりな私に一番適した髪型だったのだ。

あとは、きっと当時からもショートに愛着というか、親しみというか、好感を抱いていたなぁと思う。そういう感情含めてショートでいるのが楽だ、と感じていたのだ。

 

そんな私に一度転機が訪れる。受験勉強に明け暮れていた高3の秋頃、勉強の合間に、無事に大学生になれたとしたらどんなキャンパスライフを送れるだろうか……といった空想をよく繰り広げていたのだが、その空想を何度も巡らせた結果、「ロングヘアーになって大学デビューしよう」、という結論が自分の中で出たため、髪を伸ばし始めたのだ。

 

ロングヘアーにしようと思った理由も単純だ。ロングヘアーの方が男受けが良い、女の子らしく見えるという世の風潮に素直に自分も乗っかろうと思ったのだ。周りがそうだから自分もそうしよう、という同調意識そのものである。今思うと非常に情けない話だ。

 

それからというもの、何度も湧き出る髪を切りたい欲を赤本を解く事で紛らわせ、そのまま入試当日を迎え、無事に大学に合格し、晴れて何度も夢に見たキャンパスライフが春から始まることになったのだ。この頃にはもう髪を切りたい、と思うこともほぼなかった。そりゃそうである、なんせ「ロングヘアーで大学デビュー」、が現実になる日が目前に迫っていたからだ。

実際大学に入学した頃はロングではなく、せいぜい肩につくかつかないかくらいのセミロングの長さだった。ロングと呼ぶにはまだほど遠いものの、しかし当時の私はこれで私の華のキャンパスライフは完璧である、とすら思い込んでいた。ほんの数センチ髪が伸びただけなのに、だ。

 

しかし、入学してから1ヶ月ほど経った時、私は現実に直面する。

 

当たり前だが、人というのは環境が大きく変わったところで自分まで大きくいきなり変わることなんて不可能なのだ。いや、手っ取り早く変えられるような外見……例えば髪の毛を明るく染めてみたり、ワックスで髪を盛るとか、気合い入れて化粧して不自然なくらいにケバくなっちゃうといった試行錯誤を経て雰囲気をガラリと変える、といったことは出来る。また、最初だけ頑張って今までの自分とは大きく異なるようなキャラで人と接することはできるだろう。

しかし、それらはやはり全てハリボテとまでは言わなくとも、目に見える表面の部分だけの変化であり、自分を自分たらしめる根本的な部分の変化とは異なる。

 

自分に似合っているかどうか、を考えず、手っ取り早くイメチェンしたい!周りも染めてるし!といったテンションで髪を染めた人なら、どうしてもその人自身の魅力を引き出せないような、没個性的な髪型になってしまうことが多々あるだろうし、それらしき人を春のキャンパスで何人も見かけるものだ。逆に言ってしまえば、自分に似合う髪色に染めたなら、それは自分の新たな魅力の開花であり、本当の意味での自分自身の変化と呼べるもので間違いない。そして、外見に関してはいくらでも試行錯誤を重ねられるため、まだ良い。

 

特に問題なのは高校の時とは全く違うようなキャラへの方向転換を試みるケースだ。

実際、入学を機にキャラのマイナーチェンジ、くらいが現実的であり、成功率も高いのだが、やはり新しい環境で生活するなら今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろう、なんて思うのだろう、大幅なキャラチェンジを目論む人が一定数いる(私もその内の一人である)。これは、関係が浅いうちならまだいいが、そこから話す機会が多くなってきたり一緒に行動することが多くなって仲が深まりはじめる頃には大抵ボロがではじめる。何故か?答えは簡単。例えば十数年間人見知りとして生きてきた人間が、たった数週間、一ヶ月ほどで誰とでも隔てなく話せる社交的な人物になりうるだろうか?全くないとは言い切れないが、限りなく難しいに違いない。それが出来る人は元から社交的な人物としてのポテンシャルを持っており、大学入学を待たずに皆と仲良くする事ができる場合がほとんどだと思うのだ。

 

長年自分に染み付いていた性格はそう簡単に変えられない。それが自分の悪い部分だったとしても、それ含めて自分を自分たらしめている要素なのだから、簡単に変えられるわけがないのだ。基本的に今の自分というのは、一番自分が居心地よく、平穏に生活できるような思考、行動、性格から成り立っている。それをリスクを冒してわざわざ変えようとするのは生半可な覚悟では難しいものである。仮に変えようと行動に移せた場合でも、その新しいキャラが今までの自分とは相反するものだったら、自分自身が一番違和感を抱く。その違和感を咀嚼し、吸収できない場合はそれを自分の中から排除しようとする(つまり元の性格であり続けようとする)。まるでアレルギーに対する免疫反応のようだ。

 

とにもかくにも、上記の理由から、短期間で無謀なキャラチェンジを試みる場合、多くの場合は中途半端なキャラになるか、結局変われないかの2パターンの結末で落ち着いてしまうのだ。しかも厄介な事に、入学初期においては、相手がどんな人、どんな性格なのかを知る事は、今後の人間関係を構築する上では欠かせない行為になってくるため、大抵の人は何度か関わった人のキャラをある程度把握しようと努力するのだ。そのため、接し始めからしばらく経った頃に、キャラチェンジの失敗を理由に(相手は、キャラチェンジの事実すら知らないことを念頭に置かねばならない)、キャラチェンジのキャラをさらにチェンジさせる、もしくは大学入学前の本来の自分に戻る(これも相手からすればキャラチェンジと捉えられる)、といったことをすると、どれが本当のキャラなのか?いまいちどういう人なのか掴みにくい、といった印象を相手に与える可能性があり、円滑な人間関係の構築の障害になるかもしれない。

これらのリスクを踏まえたうえで、本当に自分はキャラチェンジをするのか否か、といったことを検討するのが安全であり自分自身のためでもあるのだ。(もしこれを読んでいる人のなかに、大学入学じゃなくとも、何かしらの転機に乗じて「自分改革」をしようと考えている人がいるなら、このことを一度自分に当てはめて考えて欲しいと切に思う。)

 

 

これらの現実があることに、当時の自分はそこまで考えが及ばなかったのだ。

いや、及ぶわけがなかった。繰り返すようだが、髪をセミロングにしただけで何もかもうまくいくと思い込むくらいには脳内お花畑状態だったのだ、その私が冷静に物事を考えられるわけがないのだ。

私が大学デビューしようとした内容には、先ほどから挙げている「髪の毛を伸ばし少しでも女の子らしくなる(男受けのいい外見を目指す)」に加え、「コミュ障を克服し、男女関わらず多くの友人を作る(人見知りの克服)」といったものがあった。今の私を知っている読者であれば、この時点で多くを察しただろう。

 

入学してすぐの頃は、女子大生なんだから、とそれまでまともにやったことのなかったメイクを毎日欠かさずしていたし、初対面の人相手でもなんとか接しようとした。自分から人と接する機会を増やそうとしたこと自体が冒険に近いものだった。

高校の頃みたいな、地味で誰からも興味を持たれないような人物から変わり、色んな人と仲良く関わり、勉強も恋愛もバイトも充実した生活を送るための「自分改革」期間であった入学当初というのは、期待と楽しみの気持ちは確かにあった。けれど、それ以上に新しい環境に慣れようとすることと、自分を変えるために慣れないことをし続けるダブルの疲れが想像以上のものであり、それは着実に私の中に蓄積していった。

 

入学から1ヶ月も経つ頃には、もう、夢から醒めていた。

 

冷静に考えて、私が高校生の時に絶望的にモテなかったのは、髪の長さの問題ではなく、極度に緊張して異性とまともに話さない、話そうとしなかった点にあったではないか。なぜその決定的な理由を見落として、受験生だった頃の私は髪型を変えればきっと彼氏ができると思い込んでしまったのか?受験勉強の疲れで判断力が鈍ったのか、はたまた無意味とわかっていながらも、自分がモテない理由をどこかに転嫁したかったのかもしれない。

しかも、人見知りを変えようと入学してから自分なりに努力していく中で、広く浅くの人間関係が一体自分にとって何の良いことがあるのか?とふと疑問が浮かんだのだ。人間関係は損得勘定で築くものではないと理解しているが、それでも、仲良くなりたい、もっと相手のことを知りたいと思えない人と無理に関係を維持していく労力が無駄だと感じたのだ。今後仲良くなるのかわからない人のために精神削ってまで接する必要はあるのか?時間をかけてでも、自分と気の合いそうな人を見つけ、その人と深く仲良く接していけば十分ではないか?という考えに行き着いたのだ。

 

そう気付いた時、私は私の好きなように生きるのが一番である、と痛感した。

世の中の風潮、大多数の考え、はそれとして存在しているが、それらが一体私にどう影響を与えようというのか。量産型ファッションのように、一見したらどれも同じに見えるような没個性の枠組みの中になぜ自ら進んで入る必要があるのか。「世の普通」「普通の大学生」の枠に入って自分を殺すくらいなら、枠の外で、自由気ままにやる方がよっぽど楽しいに決まっている。

そう、自分がこうありたい、こうしたい、という明確な考えがあるならば、それを貫き通すべきなのだ。外野の声に耳を傾ける必要はない。そして、世の中に大多数がいるならば、少数派も必ず存在しているのだ。自分を理解してくれる少数派と出会い、その人たちと仲良くすることができれば、これ以上望むことがあろうか。大学に入学してからもうすぐ3年経つが、私は幸いにも自分を自分として認めてくれる友人に出会えたため、それだけでこの大学に進学して良かったと感じている。(相手が自分のことをどう思っているのか、を考え始めるとキリがないため相手も自分と同様に思ってくれてることを信じるのみだ。)

 

このことに気づいた私は、せっかく伸ばしていた髪を切り、ショートに戻した。

そこから今日まで、ずっとショートヘアーである。

今、私がショートヘアーにしている理由は、「ショートが好き」だからだ。

ショートは男受け悪い、と腐る程聞いてきた。彼氏が欲しいな、とよく思う私にとって、男受けの悪い髪型をすることは自分にとってマイナスであるはずなのだ。

でも、ショートの髪型が一番自分に似合っていると思っているし、ショートの女性を見ると、かっこいいな、と思うのだ。かわいい女の子、よりもかっこいい女の人、に憧れる私は、自分もショートにして、かっこいい女の人に形だけでも近づきたい、と思っている。そのためなら男受けなんて二の次である。むしろ、ショートが好きじゃない男はこっちから願い下げだわ!という勢いである(私に願い下げされてもダメージを負う人がいないのも分かってて書いてる)。

髪の毛を黒髪のままにしているのは、黒髪ショートがかっこいいと思っているからだ。

 

黒髪ショートというのは、周囲の流行り、一般的な受けの良さを無視し、自分が自分の好きなように生活をしていることの表れなのだ。

 

茶髪のパーマのかかったかわいい女の子が好きな大多数の男の好みになるのではなく、自分の好きなように生活した結果、ショートでかっこいい女の人が好きな少数の男の好みになっていた、というのを目指したいし、そういう男の人と付き合えたりできれば、正直私の大学生活はもう満点である。

 

私の黒髪ショートにはこんな背景がありましたとさ。

変容する自分 と 取り残される心

初更新。思い立って開設。

ブログ自体は中学生の時に頻繁に更新していたから、テーマは違えどこうしてまたまとまった文章を好きなだけつらつらと書いて投稿する場ができたのは懐かしい気持ち。

高校、大学では専らツイッターに耽ってしまい、文章の推敲にさほど気を使わなくて済む短文投稿に慣れてしまい、読む相手を意識した文章を書く機会が減ってしまったことに少し危機感を覚えたのがこのブログを開設した理由の一つだったりします。

 

このブログでは、この時期の自分だからこそ悩むようなこと、うまく表現できないような「なにか」を、他の人に共有できるように、もしくは言葉を用いて一つの表現を与えることで自分自身を納得させるために、言語として、文章として「なにか」を昇華しようと試行錯誤する場になるかと思います。内容自体もありきたりなものになるかと思うので目新しいものを求める人には向かないかも。気が向いたり暇な時に覗いてくれれば嬉しいです。

 

さて、そろそろ本題に。

初回の更新は「変容する自分 と 取り残される心」について。

いわゆる過渡期ってやつです。私はまさに過渡期真っ只中です。皆さんはどうでしょうか。

私が高校生の時、大学受験において進路を決める時、志望校を決める時、進学先を決める時、どのタイミングでも「将来のことなんてわからないのに、けれどここで自分が成す選択がきっと将来の自分を行き先を決めるんだろうなぁ、こわいな」といった不安を漠然と感じていたことがあったけど、これも今思うと過渡期の中にいるからこそ生まれるものだと思うんですよ。

念のためネットで過渡期の意味を検索すると、「移りかわりの途中の時期。物事の移りかわりの最中で、まだ安定していない時期」だそう。

となると自分を取り巻く環境の移りかわり、自分自身の移りかわりの最中が過渡期なんだから、高校生の時に感じていた不安は、「ひどく不明瞭だが、今後の自分の人生を大きく左右してしまう予感を感じさせる過渡期」を上手に舵切る自信がなかったことから生じたもので間違いないし、大学生の私が今感じている不整合感もまた過渡期の荒波に揉まれている証拠でもあると思うんですね〜。

 

Q.大学生になった今の私が感じている過渡期とは?

ずばり、答えはこの記事のタイトル。

A.変容する自分 と 取り残される心

まさにこれなんですよ!

なんとなく理解できるかもしれないけれど、一つずつ説明してみます。

 

「変容する自分」=子供から「大人」へと変わる自分。

高校を卒業して大学に入学した途端、人間関係も行動範囲も今までとは比べ物にならないくらい一気に開け広がり、自由と責任が与えられました。

大学生はいわば「大人」として社会に出るための予行練習期間だと思うんです。(一応断っておくとなにも大学生にならないとこの予行練習期間がないわけではなく、高校生の間に例えばバイトの経験を積極的に積むことを通して「大人」になる予行練習をして社会に出る人だって当然いる。が、今回は大学生に焦点を当てて話を進める。)

法律で定められた成人年齢を迎えれば「大人」に自動的になれるものだと小さい頃は思ってた。そうでなくとも、大学4年間はモラトリアムと呼ばれているくらいなのだから、焦って「大人」になる必要はない、ゆっくり少しずつ「大人」になろう、と大学に入った頃はあまり重く受け止めず、気楽に考えていたけどね。でも、実際20歳を迎えてから早2ヶ月以上経った今、「自分は『大人』になれていますか?」なんて聞かれたら即座に首を横に振る。

予行練習期間である大学生活の中で、バイトで社会常識を身につけ、サークルで上下関係の中での人付き合いを学び、様々な出会いを通して好きな人が出来て、恋愛に現を抜かしたり。もちろん自分の興味関心のある勉学に励むことも、全部「大人」になるために大事な要素だということには多くの人が気づいていると思うのです。けれど。

 

何を以って「大人」になれたと言えるのか。私はその答えが分からない。正直自分が「大人」になる想像が全くつかないのだ。

 

けれど、だからといっていつまでも自分が「大人」にならず、子供のままでいることは許されるのか?

答えは「ノー」。社会は、私たちに「大人」になることを常に要求してきているからだ。ちらっと前述したように、20歳が法律上での成人年齢であるという事実はもちろん、進学に伴って一人暮らしを始める時、お年玉がもらえなくなったりいつの間にかクリスマスにサンタが来なくなった時、成人を迎える頃に家に届く国民年金の書類、結婚や出産が遠い話のように思えなくなる瞬間、就活。それらの一つ一つが確実に私たちの子供からの脱却を着々と押し進めている。つまり、自分が「大人」がなんたるかを理解しているか否かが重要なのではなく、所定の時期までに必ず「大人」という枠組みの中に入ることが私たちは求められているのだ。このあたりが「変容する自分」の根幹の部分となっている。そして、「取り残される心」にも関わってくる。

 

「取り残される心」=「大人」へと変容せざるを得ない状況に対する自分の戸惑いの気持ち・周囲の人から置いていかれるような気持ち。

これは絶ッッッッッッッ対、誰しもが一度は感じているはず、というか現在進行形で感じている人がほとんどだと思うのですが、まさしく。

その心情がこの「取り残される心」。

自分は社会から「大人」になることを要請されている環境の中で生きているけれど、そんな簡単に「大人」にはなれない。そもそも「大人」になるために手探り状態の日々を過ごしていてはいるけれど、自分なりの「大人」の答えを見つけ出し、自分がそんな「大人」になることが出来る、なんて確証はどこにもない。私はそんな不安を飼い慣らしながら生活している。すると、精神が子供な私は幾度も

 

「社会が『大人』になれって言ってようが、そんなん知ったこっちゃない。私は今が楽しんだからそれでいい、先のことなんて考えたくない。まだまだ子供でいたい……」

 

なーんて、こんなことをぼんやりと、しかし強く心から思う。このような「大人」になることへの放棄、逃避なんかは、変容しないといけない状況におかれつつも自分の気持ちが取り残されていることの分かりやすい表れだ。

 

また、大学に行くと周囲には自分と全く同じ境遇に置かれた友人がいる。そこで、互いが互いをまだ「大人」になりきれていない、子供のままでいることを望んでいるような段階に踏みとどまっているんだろうなと認識できるうちは、「まだ仲間がいたんだ」、という安堵感を覚えるに留まるだろう。

しかし、もし友人が自分より先に明確な将来の進路を見つけていたとしたら?進路の実現のためにインターンや何か熱中出来る活動に参加していたら?進路だけじゃない、友人の方がバイトの時間を有意義なものとして使えていたり、恋愛も順調だったり、順調じゃなかったとしてもそれを経験の一つとして人間的な深みを得られていた時、どう感じるだろうか?もしかしたらそれはいわゆる「隣の芝生は青い」ものかもしれない。けれど、同じ位置にいると思っていた友人が自分よりも先に進んだ位置にいるような、置いていかれたような気持ちを抱いてしまったら。その瞬間、八つ当たりとまではいかなくとも、友人を素直に応援する気持ちになれないことだってきっとあるはずだ。少なくとも私は大学に入ってから何度も何度も、この気持ちを味わったし、友人を応援できない自分の心の余裕のなさにも気付くことでさらに自己嫌悪した。

このように、友人が着々と「大人」への一歩を踏み出せているのに、私だけ何も変わってない……といった焦りを感じる心。これも「取り残される心」であるのだ。

 

 

「大人」になることを求めてくる社会。

「大人」とは一体なんなのか?明確な答えは明示されていない。

けれど、必死に「大人」の枠組みに入ろうとする自分。

そんな急激な「大人」への変化の中で追いつかない心、精神。

 

これが今の私の過渡期の全容だ。

簡潔にまとめてしまえば、求められている肩書き(「大人」)と中身(心)が一致していないことへの違和感、不安、といったところだろう。

ここまで読んでくれた人は「まあ、それは当然だよな」って感じの結論で肩透かしを食らったかもしれないけど、でも冒頭に目新しいことは書かないって書いてるから問題ないはず。(?)

自分の置かれた現状をこうやって書き留めておくことで整理できることだってあるからこの初回の更新、テーマは無駄じゃなかったと思いたい……。

 

来年から大学三年生ってなかなか信じがたいけど、時期が時期だから今まで以上に大学卒業後の進路を真面目に考えないといけないし、インターンも春休みから本格的に始める中で、この過渡期の変容する自分と取り残される心問題は何回も自分の中で浮上してきそうだなぁ。ただ、私は進路とかに関しては正直そこまで心配はしてないんですよ。いや、心配はしているけれど、全く目処が立っていないわけでもないし、自分の好きなこととかやってみたいことはある程度わかってて、それを実践できる機会を用意できてるからね。

となると、なんとなく薄々気づいている方もいるかもしれませんが、その通り。現時点で特に自分が一番「大人」になる上で一番足りていない経験、要素が「恋愛」だと思っているので、またいつかの記事で長々と恋愛の話でも書こうかと思います。

 

気づいたら日付が変わってたし、ゼミを平穏に離脱するための課題レポート終わらせてないし、この記事の文字数がその課題レポートの指定字数を優に超えてしまってたので寝ます。おやすみなさい。