変容する自分 と 取り残される心

初更新。思い立って開設。

ブログ自体は中学生の時に頻繁に更新していたから、テーマは違えどこうしてまたまとまった文章を好きなだけつらつらと書いて投稿する場ができたのは懐かしい気持ち。

高校、大学では専らツイッターに耽ってしまい、文章の推敲にさほど気を使わなくて済む短文投稿に慣れてしまい、読む相手を意識した文章を書く機会が減ってしまったことに少し危機感を覚えたのがこのブログを開設した理由の一つだったりします。

 

このブログでは、この時期の自分だからこそ悩むようなこと、うまく表現できないような「なにか」を、他の人に共有できるように、もしくは言葉を用いて一つの表現を与えることで自分自身を納得させるために、言語として、文章として「なにか」を昇華しようと試行錯誤する場になるかと思います。内容自体もありきたりなものになるかと思うので目新しいものを求める人には向かないかも。気が向いたり暇な時に覗いてくれれば嬉しいです。

 

さて、そろそろ本題に。

初回の更新は「変容する自分 と 取り残される心」について。

いわゆる過渡期ってやつです。私はまさに過渡期真っ只中です。皆さんはどうでしょうか。

私が高校生の時、大学受験において進路を決める時、志望校を決める時、進学先を決める時、どのタイミングでも「将来のことなんてわからないのに、けれどここで自分が成す選択がきっと将来の自分を行き先を決めるんだろうなぁ、こわいな」といった不安を漠然と感じていたことがあったけど、これも今思うと過渡期の中にいるからこそ生まれるものだと思うんですよ。

念のためネットで過渡期の意味を検索すると、「移りかわりの途中の時期。物事の移りかわりの最中で、まだ安定していない時期」だそう。

となると自分を取り巻く環境の移りかわり、自分自身の移りかわりの最中が過渡期なんだから、高校生の時に感じていた不安は、「ひどく不明瞭だが、今後の自分の人生を大きく左右してしまう予感を感じさせる過渡期」を上手に舵切る自信がなかったことから生じたもので間違いないし、大学生の私が今感じている不整合感もまた過渡期の荒波に揉まれている証拠でもあると思うんですね〜。

 

Q.大学生になった今の私が感じている過渡期とは?

ずばり、答えはこの記事のタイトル。

A.変容する自分 と 取り残される心

まさにこれなんですよ!

なんとなく理解できるかもしれないけれど、一つずつ説明してみます。

 

「変容する自分」=子供から「大人」へと変わる自分。

高校を卒業して大学に入学した途端、人間関係も行動範囲も今までとは比べ物にならないくらい一気に開け広がり、自由と責任が与えられました。

大学生はいわば「大人」として社会に出るための予行練習期間だと思うんです。(一応断っておくとなにも大学生にならないとこの予行練習期間がないわけではなく、高校生の間に例えばバイトの経験を積極的に積むことを通して「大人」になる予行練習をして社会に出る人だって当然いる。が、今回は大学生に焦点を当てて話を進める。)

法律で定められた成人年齢を迎えれば「大人」に自動的になれるものだと小さい頃は思ってた。そうでなくとも、大学4年間はモラトリアムと呼ばれているくらいなのだから、焦って「大人」になる必要はない、ゆっくり少しずつ「大人」になろう、と大学に入った頃はあまり重く受け止めず、気楽に考えていたけどね。でも、実際20歳を迎えてから早2ヶ月以上経った今、「自分は『大人』になれていますか?」なんて聞かれたら即座に首を横に振る。

予行練習期間である大学生活の中で、バイトで社会常識を身につけ、サークルで上下関係の中での人付き合いを学び、様々な出会いを通して好きな人が出来て、恋愛に現を抜かしたり。もちろん自分の興味関心のある勉学に励むことも、全部「大人」になるために大事な要素だということには多くの人が気づいていると思うのです。けれど。

 

何を以って「大人」になれたと言えるのか。私はその答えが分からない。正直自分が「大人」になる想像が全くつかないのだ。

 

けれど、だからといっていつまでも自分が「大人」にならず、子供のままでいることは許されるのか?

答えは「ノー」。社会は、私たちに「大人」になることを常に要求してきているからだ。ちらっと前述したように、20歳が法律上での成人年齢であるという事実はもちろん、進学に伴って一人暮らしを始める時、お年玉がもらえなくなったりいつの間にかクリスマスにサンタが来なくなった時、成人を迎える頃に家に届く国民年金の書類、結婚や出産が遠い話のように思えなくなる瞬間、就活。それらの一つ一つが確実に私たちの子供からの脱却を着々と押し進めている。つまり、自分が「大人」がなんたるかを理解しているか否かが重要なのではなく、所定の時期までに必ず「大人」という枠組みの中に入ることが私たちは求められているのだ。このあたりが「変容する自分」の根幹の部分となっている。そして、「取り残される心」にも関わってくる。

 

「取り残される心」=「大人」へと変容せざるを得ない状況に対する自分の戸惑いの気持ち・周囲の人から置いていかれるような気持ち。

これは絶ッッッッッッッ対、誰しもが一度は感じているはず、というか現在進行形で感じている人がほとんどだと思うのですが、まさしく。

その心情がこの「取り残される心」。

自分は社会から「大人」になることを要請されている環境の中で生きているけれど、そんな簡単に「大人」にはなれない。そもそも「大人」になるために手探り状態の日々を過ごしていてはいるけれど、自分なりの「大人」の答えを見つけ出し、自分がそんな「大人」になることが出来る、なんて確証はどこにもない。私はそんな不安を飼い慣らしながら生活している。すると、精神が子供な私は幾度も

 

「社会が『大人』になれって言ってようが、そんなん知ったこっちゃない。私は今が楽しんだからそれでいい、先のことなんて考えたくない。まだまだ子供でいたい……」

 

なーんて、こんなことをぼんやりと、しかし強く心から思う。このような「大人」になることへの放棄、逃避なんかは、変容しないといけない状況におかれつつも自分の気持ちが取り残されていることの分かりやすい表れだ。

 

また、大学に行くと周囲には自分と全く同じ境遇に置かれた友人がいる。そこで、互いが互いをまだ「大人」になりきれていない、子供のままでいることを望んでいるような段階に踏みとどまっているんだろうなと認識できるうちは、「まだ仲間がいたんだ」、という安堵感を覚えるに留まるだろう。

しかし、もし友人が自分より先に明確な将来の進路を見つけていたとしたら?進路の実現のためにインターンや何か熱中出来る活動に参加していたら?進路だけじゃない、友人の方がバイトの時間を有意義なものとして使えていたり、恋愛も順調だったり、順調じゃなかったとしてもそれを経験の一つとして人間的な深みを得られていた時、どう感じるだろうか?もしかしたらそれはいわゆる「隣の芝生は青い」ものかもしれない。けれど、同じ位置にいると思っていた友人が自分よりも先に進んだ位置にいるような、置いていかれたような気持ちを抱いてしまったら。その瞬間、八つ当たりとまではいかなくとも、友人を素直に応援する気持ちになれないことだってきっとあるはずだ。少なくとも私は大学に入ってから何度も何度も、この気持ちを味わったし、友人を応援できない自分の心の余裕のなさにも気付くことでさらに自己嫌悪した。

このように、友人が着々と「大人」への一歩を踏み出せているのに、私だけ何も変わってない……といった焦りを感じる心。これも「取り残される心」であるのだ。

 

 

「大人」になることを求めてくる社会。

「大人」とは一体なんなのか?明確な答えは明示されていない。

けれど、必死に「大人」の枠組みに入ろうとする自分。

そんな急激な「大人」への変化の中で追いつかない心、精神。

 

これが今の私の過渡期の全容だ。

簡潔にまとめてしまえば、求められている肩書き(「大人」)と中身(心)が一致していないことへの違和感、不安、といったところだろう。

ここまで読んでくれた人は「まあ、それは当然だよな」って感じの結論で肩透かしを食らったかもしれないけど、でも冒頭に目新しいことは書かないって書いてるから問題ないはず。(?)

自分の置かれた現状をこうやって書き留めておくことで整理できることだってあるからこの初回の更新、テーマは無駄じゃなかったと思いたい……。

 

来年から大学三年生ってなかなか信じがたいけど、時期が時期だから今まで以上に大学卒業後の進路を真面目に考えないといけないし、インターンも春休みから本格的に始める中で、この過渡期の変容する自分と取り残される心問題は何回も自分の中で浮上してきそうだなぁ。ただ、私は進路とかに関しては正直そこまで心配はしてないんですよ。いや、心配はしているけれど、全く目処が立っていないわけでもないし、自分の好きなこととかやってみたいことはある程度わかってて、それを実践できる機会を用意できてるからね。

となると、なんとなく薄々気づいている方もいるかもしれませんが、その通り。現時点で特に自分が一番「大人」になる上で一番足りていない経験、要素が「恋愛」だと思っているので、またいつかの記事で長々と恋愛の話でも書こうかと思います。

 

気づいたら日付が変わってたし、ゼミを平穏に離脱するための課題レポート終わらせてないし、この記事の文字数がその課題レポートの指定字数を優に超えてしまってたので寝ます。おやすみなさい。